この部屋の扉を開けるときは、いつだって緊張する。彼に、来い、とか、入っていい、とか、そんなことを言われたことは一度だってなくて、ここに来るという選択肢は自分で選び取っているわけなのだけれども、それでもやっぱり、緊張する。
だってそれはいつからか、あなたがわたしを名前で呼ばなくなったからじゃないか。


























「・・・で?今日はなにしに来たわけ、君は」




にはよくわからないファイルに注いだ視線をこちらへ向けようとはせずに、彼、雲雀恭弥は言った。最近では雲雀の一言ひとことに、胸がちくちくと刺されるような痛みをおぼえる。




「・・・こ、この間、お昼・・・パンなの、見たから・・・お弁当、よか・・・ったら」




言いながら、は抱えていた弁当箱を雲雀に差し出した。限られた朝の時間の半分以上を費やして、彼のために作った弁当だった。ファイルから目をはなさない雲雀にちいさく息をついて、はソファの前のテーブルにそれを黙って置いた。




「ずいぶんと、突然だね」

「・・・・・」




はなにも言わずにうつむいた。すこしでも、すこしでもこの応接室に足を運ぶ理由がほしいのだということを、彼はわかってくれない。最近の雲雀は、なにを言っても、なにをしても、淡々とした反応しか返してくれなかった。いつからこうなったのか、ももう憶えてはいないのだけれど、ただそれはきっと、を名前で呼ばなくなって、彼を恭弥と呼ぶことも許さなくなった、そのころと同じなのだろう。




「食べたらさ、ええと、ちょっとくらいは洗ってくれると嬉しいけど・・・それでそのへんに置いといてくれれば、明日また取りに・・・」


「明日も来るって、そういうこと?」




そこで雲雀は、にやっと視線を投げた。刺すようなそれに、の身体は思わずすくんでしまう。昔はその目つきも、もっとやわらかかったはずなのに。すくなくとも、にとってはそうだった。そうだ、昔は、昔は彼との会話はもっと、楽しかったのに、それなのに。




「あ、明日も来たら・・・いけないの?」




気付いたら、思い切ってそう告げていた。ただ一緒にいるだけで楽しかった、あのときを思い出したら、いまが無性に悲しくなった。




「そうだよ。前からそう言ってる」

「なん、で・・・」

「それを君に言うつもりはない」




言い終わると、雲雀はの置いた弁当箱を手にして、ずいと突き出した。こうして彼は、が彼に会いに来る理由を次々とうばっていってしまう。はちいさく、けれどしっかりと拒否するように、首を横に振った。




「食べてから、返して」

「食べないよ。いらない」

「じゃあ、中身、捨てればいい。それで明日、返して」

「はっきり言わないとわからないんだね。迷惑なんだよ、もう会いに来るな」




静かに、それでも確かに拒否する言葉だった。その冷たい物言いに、の目から涙がこぼれた。




「やだ、そんなの。会えないのも、君って呼ばれるのも、雲雀くんって呼ぶのも、もういやだ」




もっと大きく首を振って、はひたすら否定した。どうして彼は、昔のように振舞うことを許さないのだろう。がいけないのか、それとももっと別のところに理由があるのか、なにもわからないのに、わからないまま、距離をおかれた。が必死になって詰めようとする距離の分、あっという間に遠ざかっていく。


いちばん近くにいたはずなのに、いまは一番遠くにいる気が、する。










「・・・・・親に言われただろう」


突然の声に、は涙を止めて雲雀を見た。雲雀はソファから立ち上がって、窓の外を見ている。




「『もうあの子とは付き合うな、危ないことに巻き込まれでもしたらどうする』って、まあ、そんなところかな」

「そ、それ・・は・・・」




聞いてたの、という言葉が、喉まで出かかった。確かに、言われた。中学に上がってわりとすぐ、不良をまとめあげてしまった雲雀を指して、母親はそうに告げたのだ。でもそれは、彼を小さいころからよく知る母親にとってもつらい選択だった。それでも娘のことを選んだ彼女をは責めないで、だから母親に心配をかけないように、それでも今までどおりに雲雀と付き合っていこうと思ったのだ。
そのことを、言っているのだろうか。だから彼は、距離をおいて。




「でも、あたしは気にしてないから・・・だって恭弥は恭弥だし、なにも変わらないし・・・」




だから昔みたいに、そう投げかけたの言葉を背中で受け止めて、雲雀は静かに身体をこちらに向けた。




「やっぱりなにも分かっちゃいない」




口の端に笑みさえ浮かべて、雲雀は言った。




「君が僕の幼なじみだって、よその連中に知られてみなよ。僕に負けた腹いせに、君を襲ってくるかもしれない。あるいは僕を潰すために、君を利用するかもしれない。そういう危険から、君の母親は君を護ろうとしてるのさ。そっちが、正しいよ」




は息を止めて、雲雀の話を聞いていた。それが本当なら、それは本当に、母親がのために、していることになるのだろうか。
実際に遠ざかり始めたのは、雲雀のほうだった。むしろ、雲雀が、自分のために、距離をおいているのだと。そういうことに、ならないだろうか。




「あ・・・あたしはそんなの、怖くないよ」

「なにが起こるかも知らないくせに、無責任なことを言うな」




声のトーンが、下がった。びくりと身を縮めて、は雲雀を見る。
もう、変わってしまったんだろうか。ふたりの歩いている道が、交わることはもう、ないのだろうか。それでもすこしの可能性にすがりつくように、はまた口を開いた。




「だけど、恭弥、あたしは、」







久しぶりにつむがれた名前は、の動きを止めるのに充分だった。テーブルの上に居心地悪そうに置かれていた弁当箱に再び手をのばして、雲雀は言う。




「わかったら、もう行ったほうがいい。・・・これは、あとで誰かにでも、届けさせるよ」




食べてくれるんだ、と嬉しくなると同時に、これでもう最後だと、そう告げられた気がした。
やっぱり食べないで、と、矛盾したことを言いそうになる自分を叱って、はぐっと口を結んだ。また流れだした涙が、唇の間から入り込む。


なにがいけないと、そういうわけではないのかもしれない。けれど、自分がもっと強ければよかったんじゃないか、と後悔する気持ちは、のなかにくすぶって、彼から決して離れられなくしてしまうのだ。


弁当箱は、きれいに洗われていた。



















みえない涙
02.もう昔とは違うんだ


































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(2006.3.23)