放課後になると真っ先に学校をとびだし、住み慣れた街を一目散に駆け抜けた。通常ならば数十分かかるであろう道のりも、今の幸村にかかれば10分ほどで事足りる。街外れの、えらく広大な敷地内。その中の、古びてはいるものの、貫禄のある立派な道場の入り口を、大声をだしながらくぐりぬけた。
「失礼致す!真田幸村、ただい、ま・・・」
自身の声が誰もいない道場にむなしく響いたことに、幸村は首をかしげた。いつもならば道場主である彼の師か、他の門下生たちがすでにいるはずなのに、今日は誰の姿もない。一度外に出て、あたりを見回し、自分が来ている場所が目的の道場でやはり間違いないことを再度確認すると、また静かに足を踏み入れる。それでも靴を脱ぎ上がりこむのはためらっていると、道場の奥、幸村のいるところとは反対側の入り口から、カタンと人のたてる音がした。
「幸村くん?」
「! 殿!」
姿をみせた少女に、幸村の顔にぱっと笑みがあふれる。ここの道場主、武田信玄の娘である彼女もまた学校から帰ってきたばかりなのか、制服姿で広い道場内を横切ると、幸村の前まで歩いてきた。
「幸村くん、今日はどうしたの?」
「どうした、とは・・・。どうしたもなにも、某は今日も御館様より剣術の指南を受けに来ただけで、」
「ええ?あれ、聞いてなかった?父さん、今日は昔の友達に会うから、稽古はお休みにするってこの前みんなに言ったはずだけど・・・」
「な、なんと・・・!それは真にござるか!」
驚いた表情で幸村が言えば、うん、とがうなずく。信玄の言葉を自分が聞き漏らすなんて有り得ないと思いたいが、事実こうして誰もいない道場を見れば、おそらくは何かの理由で聞きそびれたのだろう。
「くっ・・・!俺としたことが、御館様のお言葉を聞き漏らすなどと・・・!」
「珍しいね。なにか考え事でもしてたの?あのとき確かわたしも近くにいたけど、幸村くん、いつも通りに見えたけどなあ」
「・・・!」
のその言葉に、幸村はわずかに息を呑んだ。そう、いえば。
「・・・殿。御館様が話をされたときというのは、その・・・殿がちょうど、ここへ顔を出されたときで・・・」
「あ、そうそう。あのとき幸村くんと目があったよね」
「そ、そう!・・・でした!」
急にそのときのことを思い出した幸村は、かあ、と途端に頬を赤くした。あのとき、そう、確か信玄の忘れ物を届けに道場にやってきたと目があい、その口がこそりと「がんばってね」と動いたのに、一気に頭がぼう、としてしまったのだ。
幸村は少女、に恋をしている。
幼いころよりこの道場に通い、そして幼いころよりに淡い恋心を抱き続けて早数年。学校が終わればすぐさまこの道場に駆けて来るのだって、学校が違い、普段なかなか会うことの出来ないの顔を一秒でも早く見たいからだ。
しかし残念ながら、今日はその時間もこれで終わりらしい。
「や、やはり今回は某の不徳の致すところのようですので、お暇することに・・・」
「え、だけどせっかく来たのに。稽古していったら?父さんはいないし、わたしも見るくらいしかできないけど」
それでもよければ、と笑顔をみせるに、幸村は耳まで赤くなった。と一緒にいられる時間を逃すわけもなく、次の瞬間には首を大きく縦に振っていた。
幸村が服を着替え、竹刀を振りはじめるころに一度道場を出ていたは、やがて盆の上に二人分の湯飲みと団子を乗せて戻ってきた。幸村が普段から好んでいるそれに、思わず集中が途切れ喉が鳴る。
「いつもなら道場で飲み食いするなって怒られるけど・・・今日は稽古日じゃないし、父さんもいないし、ちょっとくらい良いよね」
みんなには内緒ね、と笑うに一も二もなく頷いた。それでも道場のど真ん中で食べるのは気が引けたので、中庭に面する戸を開け放ち、その縁へ腰掛け、二人して団子を口にする。と食べる団子は格別だ、と幸村はこそりと思った。
「幸村くん、学校で剣道部に入ったりはしないの?」
「なかなかにレベルの高い部ではあるのですが・・・しかし正直なところ御館様のご指導に勝るものはなく、幼少より慣れ親しんだこちらの道場のほうが某には合っている」
「・・・そっか」
幸村の言葉に、が嬉しそうに目を細める。その雰囲気が普段の彼女とは違う気がして、幸村の鼓動は自然と速くなった。
「そ、そういう殿こそ、学校はどうなのでござるか。女子のみの環境というのは、某には全く想像もつきませぬが」
「うん、わたしも最初はちょっと変な感じだったけど、もう慣れたし、楽しいよ。・・・というか、幸村くんこそ、男子校に行くのかと思ってたんだけどなあ」
「あ、そ、それは・・・まあ・・・」
もごもごと言葉を濁した幸村が、話題を変えようと息を吸い込んだ、そのとき。
「あーっ、いたいた真田君!」
突如割り込んできた第三者の声に、二人が弾かれたように振り替える。道場の入り口には、幸村のクラスメイトである女子生徒が二人、立っていた。
「え、な、何故ここに・・・!」
「真田君てときどき放課後すぐにいなくなるの、なんで?って聞いたら、前田君がここのこと教えてくれて。ね、練習見ててもいい?」
「け、慶次殿か・・・っ」
「ねえねえ、なんでウチの剣道部に入らないの?全国大会常連なのに!」
「だよね。前田君も、真田君すごい強いって言ってたし」
「いや、それは・・・」
次々と質問をあびせてくる二人に幸村が答えあぐねていると、背後でが食器を片付けるような音がした。振り返ると、立ち上がり、道場を出て行こうとする少女の姿がある。
「あ、殿!」
「幸村くん、その子たちと話してたら?わたし宿題あるし、もう戻ってるね。それじゃあ、また」
「な・・・っ」
言うが早いか背を向け逃げるように出て行くに、幸村は訳が分からずに焦った。ねえねえ真田君、と話しかけてくるクラスメイトへ向かい、切羽詰った声で告げる。
「稽古は休みなのだ、だからすまぬが今日は帰ってくれないか。某はまだ彼女に話があるので・・・!」
言い残すと、ええ!と不満の声をあげる二人を置いて、の後を追いかけた。
怒っている。
それ以上に、悲しんでいる。
わずかに見えた表情と、その声音に、じゅうぶんすぎるくらいにの気持ちを感じ取った幸村は、突然にそうなってしまった理由が分からないままに走った。母屋に戻っているのかと思われたはまだ外にいたが、その壁にもたれかかり、盆を抱えたまま俯いている。幸村が近づいてくるのに気が付くと、びくりと肩を揺らした。
「殿・・・どうかしたのでござるか、急に、」
「ごめんね、ほんとに、宿題のこと思い出しただけ。だから戻っていいよ、好きなだけ道場にもいていいから」
「・・・ならば・・・その、殿も一緒に」
幸村がそう言うと、ば、とが顔を上げる。その瞳には今にもこぼれおちそうなくらいに、涙がたまっていた。幸村は息を呑み、とっさに言葉を失う。
「どうして?」
「・・・そ、それは、そもそも、某が一緒にいたのは殿だったのだから、」
「わたしに幸村くんが女の子と話してるの見てろって言うの?」
そう言うの顔がくしゃりと歪み、ぽろぽろと涙がこぼれだす。反射的にそれをぬぐってやろうと伸ばした幸村の手から、避けるように顔を逸らした。
「わたしそんなの、見たくない」
「殿、」
「・・・ばかだね、わたし」
「・・・?」
行き場を失った手をさまよわせながら、幸村はの言葉に耳を傾ける。どうして突然彼女が涙を浮かべ、放心したような表情さえみせるのか、それが全く分からない。
「・・・幸村くんが他の女の子と一緒にいるところなんて、今まで見たことなかったから・・・。勝手に安心してたけど、でも・・・わたしの知らないところで、幸村くんだって、たくさん女の子に囲まれてるんだって、そう思ったら、わたし、」
「か、囲まれてなど!そそそんな、殿、某はそのように人気のあるような輩では、」
「あるに決まってるよ!だってこんなに強くて優しくて格好良いのに、女の子たちが放っておくわけない!」
「な・・・っ」
全身が粟立ち、血液が身体中を激しく駆け巡る。金縛りにでもあったかのように指先ひとつだって動かせないのに、壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに心臓が鳴り出して、鼓動に喉がつぶされてそれ以上に声が出なかった。
そんな、こと。今まで一度だって、の口からそんなもの、聞いたことがない。
幸村をそんな状態にしてしまったとはおそらくこれっぽっちも思っていないは、視線を下へと向けたまま、その睫毛を涙にふるわせる。
「・・・なにしてたんだろ」
「・・・」
「一番近くにいるつもりで、ぜんぜん、なんにも見てなかった。・・・学校だって幸村くんと同じところにしてたら、」
「そ、それはっ」
ようやく動くようになった手で、の手首をがしりと掴んだ。驚いたが目を見開き幸村を見る。
「それは、そんなの、それを言いたいのは、俺のほうだ!」
え、とが思う間もなく、その身体は幸村の腕に引き寄せられていた。地面に落ちた盆ががしゃん、と音を立てるのが聞こえたが、それを見るために顔を動かすことも出来ない。それくらい力強く、幸村に抱きしめられていた。
「ちょ、ゆき、」
「小学校も中学校も別々で、高校はようやく同じところへ通えると思っていたのに、殿が女子高志望だと聞いて、俺がどれほど絶望したか・・・!」
「絶望ってそんな、大げさな」
「大げさではござらん!殿と通おうと俺は共学を選んだというのに・・・っ、一時は女装でもして殿の後を追おうかとも考えたのですぞ!」
「ぶふっ!」
幸村の衝撃的な暴露に、こらえきれずがふき出す。恥ずかしさからぎゅう、とを抱く腕に力をこめた幸村だったが、の笑いはそんなことではおさまらない。
「そんな、だって・・・っ!うちの制服幸村くんが、あはははは!に、似合わない・・・!あはは、あは、おなか痛・・・っ」
「じ、重要なのはそこではない!良いから少し黙ってくだされ・・・っ」
そこでわずかに笑いをゆるめたは、ふと押し当てられた幸村の胸の鼓動に気付く。ばくばくばく、とひどく激しく鳴っているそれに、しっかりと回された手のひらの熱さ。幸村がこれからなにをしようとしているのかが伝わってくる気がして、つられるようにの鼓動も速まった。
「・・・俺も、後悔しています。もっと早く伝えていれば、今頃・・・」
「つたえる、って・・・なに、を?」
たずねる声が震えている。幸村はこれ以上ないくらいにをきつく抱きしめて、すう、と大きく息を吸った。
「すき、です。・・・殿」
あんなに息を吸ったのに、普段あれだけ大きな声なのに、そう言った幸村の声はささやくようで、抱きしめられたにしか届かないくらいの小さな小さなもので。
けれどその一瞬、彼の一言で、周囲の音が一切消えてしまったように感じた。
「殿、どうか、俺の・・・か、彼女になって、いただけませぬか!」
「はい」
すぐに聞こえてきた返事に、思わず幸村は腕の中の少女を見る。そこには真っ赤な顔に心からの笑みを浮かべるが、いた。
「はい、もちろん!」
「・・・・・っ!」
ば、と自分の口元を手で覆った幸村は、何かに耐えるようにぶるぶると肩を震わせたあと、再びがばりとに抱きついた。
「殿!!すきです!!!」
そのあまりの大声に、周囲にいた鳥が一斉に空へと羽ばたいた。
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もう幸村くんかわいいったら
(2010.9.6)