使用人づてに聞いたの容態は、だいぶ回復に向かっているらしい。もう布団から起き上がって、日常生活にはなんら問題ないそうだ。坊ちゃまも会いに行かれたらいかがですか、と言われたが、首を横にふるにとどめた。





 枢木神社の敷地内でと遊ぶのが日課だ。あの日も二人で走り回っていた。何百段あるかしれない階段も使って追いかけあうのも初めてでなく、ただ楽しんでいた、のだったが。
 不意にが足を踏み外し、数段を転げ落ちた。なにが起きたのかすぐには理解できなかったスザクは一瞬呆然として、慌てて駆け寄った先には階段の下でうずくまり、手や足、額からも血を流しているの姿があって。目の前が真っ暗になって、それから自分がどうしたのかはあまり覚えていない。


「良いのよ、スザク君のせいじゃないんだから」


 わざわざ自分を気遣って訪れたの母はそう言って、よければ見舞いに来てやってね、とまで告げた。けれど包帯でぐるぐる巻きにされて、布団の中でじっとしているを想像すると、どうしてのこのこと顔を出せるだろうと思うのだった。幸いにもが転げ落ちたのは段差も下のほうで、足をひねってしまったものの、命に関わるようなケガではなかった。だからこそ彼女の母親も自分を気遣う余裕があるのだろうが、もしこれが、もっとひどいケガだったら。たとえば足の骨を折っていたり、いや、もっと取り返しのつかないケガだったら、きっと誰も自分を許さないだろうと思った。だって、スザクと遊んだりしなければ、なんて、言うかもしれない。そんなことを考えると、なんて自分はばかだったのだろう、どうしてをかばってやれなかったんだ、自分を責める言葉ばかりつぎつぎと浮かんできて、会いに行くなんて、そんな資格はない。






「坊ちゃま」


 がケガをしてからというもの、外で遊ばなくなった。階段を見れば血を流したあの子を思い出すし、が遊びたくても遊べないのに、その原因である自分ばかりが走り回るのは卑怯だと思ったから。


「坊ちゃま、・・・スザク様?」


 使用人の呼ぶ声に返事をしないでただ部屋に寝そべっていると、ふすまの前までやってくる気配がした。使用人は失礼します、と断ってそっとふすまを開け、そちらに背を向けてただ寝ているだけのスザクを見とめ、また「坊ちゃま」と呼んだ。


「・・・なに」

「お客様ですよ。お通ししても宜しいですか?」

「いやだ。会いたくない。誰にも会いたくない」

「あら、それは残念です。せっかく治ったばかりの足でここまで来て下さったのに」


 がば、と身体を起こして相手を見た。思い通りの反応を引き起こしたのが嬉しいのか使用人はくすくすと上品に笑って、その先を言わない。じれたスザクがふすまに近づいて廊下を覗き込むと、ちょうど角を曲がってきたと目が合った。なにも言えないでいる自分に気づくとにこりと微笑み、口を開く。


「スザク」


 何日かぶりに見た笑顔は変わらないままで、鼻の奥がつんとした。












 氷の入ったグラスふたつと、均等に切りそろえられた羊羹をすぐに用意し、優秀な使用人は下がっていった。残された自分ととのあいだに流れる空気がどうなっているのかスザクが掴みかねている一方で、は嬉々としてグラスを口に運ぶ。ごくりと動く白いのどに一瞬、目が釘付けになった。


「いい天気だね」

「え、あ、・・・ああ」


 グラスを離したがこちらを向いて、すこしばかり動揺した。続けて羊羹を一切れ口にし、それも飲み込んでから、またが話す。


「どうしようか、外で遊ぶ?せっかくこんなに晴れてるんだから、外に行かないともったいないよね」

「・・・え、」


 飛び出た言葉が予想外でスザクが聞き返すようにつぶやくと、が不思議そうに首をかしげた。そんな彼女から視線を外し、できるだけ平淡な声で告げる。


「・・・ケガ、したばっかり、だろ」

「でも治ったよ。だから来たんだもん。お医者さんにも、もう遊んでもいいですよって言われたの」

「だから、って・・・」

「だって寝てる間、ほんとにすることなかったんだよ。本ばっかり読んでた。スザクがお見舞いに来てくれないから、」

「行けるわけ、ないだろ!」


 突如声を荒げたスザクにが目を丸くする。振動でも伝わったのか、グラスの氷がからん、と音を立てた。目をいっぱいに見開いて逸らさないを見つめ返すことはできずに、うつむいたままで数回息を吸い込む。無理やり落ち着かせた。


「・・・俺のせいでケガしたんだ。忘れたのかよ。見舞いなんか行けない」


 視界に入っている自分のグラス、その周りについた水滴がつうと滑り落ちるところだった。それが泣いているみたいに見えてますますうつむくと、の声がした。


「・・・スザクのせい、て、誰かが言ったの?」

「・・・言わないだけだ」

「じゃあ誰も思ってない」


 きぱりと言った声はふるえているからすこしだけ顔を上げると、は目にいっぱい涙をためていた。それが今にもこぼれおちそうで、ひどく慌てる。




「あのときだって、わたしが勝手に転んだだけだもん。でもスザクが一緒にいたからすぐ伝えてくれて、早く手当てしてもらえた。・・・わたしはすぐにスザクにありがとうって言いたかったのに、なのにちっとも来てくれないから」


 そこまで言うとぼろっと涙がこぼれおちて、反射的に袖でぬぐってやった。が泣くのはいやだ。なのにしょっちゅう泣かせているような気がする。ケガをしたのは自分のせいではないと言われ、責められていないと分かってもなお気が晴れないのは、を護ってやりたかったからなのだ。せめて自分がそばにいるあいだだけでもいつも笑顔でいさせたいと思うのに、やっぱり泣かせて、その涙をぬぐうのが習慣みたいになっている。


「スザク、あのとき、ありがとう」

「・・・・・・」

「外、行って、遊ぼうね」

「・・・うん」


 袖から顔を出したはスザクの返事に安心したように笑った。でもこういうふうに笑わせたいんじゃない。気を遣わせたり、泣かせたり、いつまで経っても自分はそんなことばっかりだ。もっと強くなりたい。もっと強くなって、こんなふうにの涙をもう見なくてもいい自分になりたい。
 グラスの雫がまたひとつ流れ落ちた。














03.俺たちってずっとこのまま?












――――――――――
(2008.5.27)