「・・・あ」
8月半ば、夏休み真っ最中。車道の向こう側に見慣れた顔を見つけたのは、総悟が夏の暑さに負け、コンビニにアイスを買いに行っている道すがらだった。
(伊東と、それからあれはたしか)
見慣れた顔は自分も所属する剣道部の3年生のもの、その隣を歩く女子も同じく3年生であり、
(噂の彼女か)
はっきりいつからかとは知らないが、伊東に彼女ができたニュースは瞬く間に部内をかけめぐったのだった。そのわりに総悟はあまり顔をよく知らなかったが、今伊東と一緒にいるのがその彼女なのだということはすぐに分かる。
(ずいぶん楽しそうにしてら)
遠目なのではっきりとは分からないが、伊東の様子は明らかに部活中のそれとは違い、道の反対側を行く総悟にも全く気付いていない。持っている荷物や進む方向、彼らが受験生だということをふまえると、目的地は図書館あたりだろう。夏休みに彼女と図書館で勉強とは、普段の彼からは想像もつかない。
(写メっとこう)
この機会を逃さぬべく、ポケットから携帯電話を取り出すと二人に向けた。カメラの高性能さが気に入って買い換えたばかりの最新機種は、なんなく通りの向こうの伊東をズームにする。
ぱしゃり。
総悟がシャッターを切った瞬間、伊東たちと一人の少女がすれ違った。一緒に写真に写りこんだ彼女を見て、総悟の目がわずかに開かれる。
(知ってる)
知ってる。反射的にそう感じた。急いで画面から顔をあげたが、少女はこちらに背を向けて角を曲がったところだった。
(知ってる、・・・けど)
もう一度画面に目を戻しながら考えるが、なんという名前だったか、いつどこで会ったのか、そもそも本当に会っているのか、なにひとつ思い出せなかった。ただ、知っている、と、それだけは思って。
(・・・誰、だっけ)
いつの間にか、伊東の姿も見えなくなっていた。
夏の幻想
近藤に家に来るよう言われたのは、それから10日ほど経った頃だった。部を引退し、おそらくは受験勉強に忙しいであろう近藤にはしばらく会っていなかったので、総悟は大人しくそれに従った。夏休みはあと数日、少女のことはまだ思い出せない。
「・・・土方さんもいたんですかィ」
ドアを開けた先には近藤だけでなく、土方の姿もあった。近藤の部屋の中央に据えられているテーブルの上には参考書やらノートやらが広げられているので、多分勉強中にたまたま総悟の話になり、呼び出されたのだ。とすると呼ばれた理由は予想が付く。
「よく来たな総悟、まァ座れ」
テーブルを挟み向かい合って座っている近藤と土方、その隣のスペースをぽんと叩かれる。とりあえず言われるままに腰を下ろすと、近藤はちらと土方を見てから総悟に聞いた。
「なァ総悟、お前この休みの間、ちっとも部活に顔出してねェらしいな?」
「いきなりその話ですかィ」
予想通りの展開に総悟がごちると、「分かってんなら話は早ェ」と土方が口を開いた。
「俺たちが引退してから一回も出てねえっつーじゃねェか、なんにも言われねェからって気ィゆるんでんのか」
「まァそーかもしれやせんね」
総悟がうしろのベッドに寄りかかりながら答えれば、近藤が困ったように土方を見る。しばらく沈黙がおりたのち、また土方がつぶやくように言った。
「・・・辞めんのか」
近藤が焦ったように総悟を見る。たっぷり時間をかけてから、総悟は「別に、」と言った。
「はっきりどうとか、決めてるワケじゃねェけど。・・・ただもう、いる意味はねェかなって」
二人と視線をあわない総悟に、近藤は眉を寄せ息をついた。そうじゃないかと思ってはいたが、こうして本人の口から言われればやはり気が沈む。
幼いころからよく知る総悟を剣道部にと誘ったのはもともと近藤だった。あまり交流の輪を広げようとしない彼を心配してのことだったが、事実総悟の剣術センスはずば抜けており、自分が引退した後は部長を任せたいとも思っているのだ。
が、総悟は常々、近藤がいるから自分も剣道部にいるのだと言っていた。どうしたって先に部を引退してしまう近藤はそれを聞くたびに不安になって、焦って、一時期は本気で留年を考えたことさえある(それは土方がとめてくれた)。けれどこうして長く部にいれば、それなりに愛着もわいて、ああは言いつつ続けることになるだろうと土方が言うのにとりあえずは安心していたのだったが、夏の大会を終え、3年生が部を引退してみれば、総悟は一度も部に出ていない。それを後輩から聞いたとき、それはまずいと、土方を引っ張り出して説得を試みようとしたのだ。
「総悟。俺がどうとか、そういうことは抜きにして、お前がどうしたいかって考えてほしいんだよ」
窓から吹き込む風が総悟の前髪をさらさらとゆすった。近藤の真剣な眼差しには応えず、総悟はおもむろにポケットから携帯電話を取り出す。「ちょいとこれ見てほしーんですが」、言いながらボタンを操作しはじめた。
「総悟、俺ァ真面目に言ってんだぞ」
「俺もちょっと真面目に聞きてェんです。ここに写ってる女子のことで」
「あのなぁ・・・」
近藤が渋るので、仕方なく総悟は携帯を土方に手渡した。黙っていた土方はそれを受け取ると、画面に表示されている写真に目を丸くする。
「・・・伊東じゃねェか」
「ああ、そーなんですけど、伊東の後ろのほうに写ってるヤツのことでさァ。先週くらいに見かけて、見覚えがあるんですけど、どうしても思い出せねェんです」
それを聞いて近藤が「俺にも見せてくれ」と言うが、土方はそれを制すると携帯を持ったまま総悟に訊ねる。
「コイツが気になんのか?」
「どっかで会った気がすんでさァ。でも誰だか全然思い当たる節がなくて。俺がわかんなくても、もしかして近藤さんか土方さんなら分かるんじゃないかって思ったんですが」
「会いてェのか」
意外にも真剣な土方の問いに、総悟は一瞬たじろぐ。会いたいのかなんて、言われても。そんなことよく分からない。
ただどうしてか、思い出そうとすると、胸の奥か、もっと別の場所か、とにかくどこかがわずかに痛むように疼きだす。一瞬だけよぎる寂しげな顔。それは本当に見たものなのか、それとも自分で勝手に創りあげたものなのか。
「俺ァただ、なんつーか・・・思い出せないのが気持ち悪ィだけで」
言い終えると頬杖を付き、窓の外に視線を投げた。まだ写真を見ていない近藤は「トシ、トシちょっと俺にも、」と手をのばすが相手にされず、土方は少し、本当に少しだけ、口元に笑みを浮かべた。
8月残り、あと数日。
夏休み明けの始業式ほどだるいものはないと総悟は思う。カレンダーが9月に切り替わったところでそうすぐに暑さが和らぐわけもなく、校庭で行われる校長の話は長く、教室に戻ってくるなり、寝ようと決め込んだ総悟は机に突っ伏した。
あの少女のことは、夢に見るようになっていた。
夢の中の総悟はまだ幼かった。蝉の声がうるさい中、周りには自分よりも背の高いヒマワリが何本も生えていて、黄色い花びらに青々とした葉をを太陽に向けて目いっぱい広げている。それを見上げるようにしていると、後ろから「そーくん」と声をかけられるのだ。振り返るとこの間の少女がにこにこしながら立っていて、総悟が何か言う前に「ばいばい、またね」と手を振り背を向けてしまう。追いかけたくても足が動かず、呼び止めたくても名前が分からない。「――、」それでも自分が何か声を出すと同時に、大抵目が覚めた。
総悟のことを「そーくん」と呼ぶのは、考え得る限り周りにはいない。とすると自分の奥底に、彼女にそう呼ばれた記憶が眠っているのかもしれない。そんなことまではなんとか想像できるのに、肝心なことはなにひとつ思い出せないのだ。
「オメーら転校生イジメとかそういうネチっこいことすんなよー」
(土方のヤロウは何か知ってる気がする)
何を、とは言えないが、数年来の腐れ縁だ。何かを隠し、考えているということは分かる。
「席はね、一番後ろの、あの端っこに用意したから。隣がどうしようもないドSだけどまあ、うまくやってよ」
(今日だって終わったら道場に来いとかわざわざ言うし)
「おーい沖田、寝てんのかー。あれ沖田って言うんだけどね、そう、今頭しか見えてないやつ。沖田ァ」
(大体あの人は毎回やり口が汚ェんだ)
「久しぶり」
(それで俺はいっつも、)
「そーくん」
ば、と顔を上げた先に、机の傍らに立つ女子生徒の姿があった。写真の中、夢の中からそのままとび出してきたような彼女は、総悟が目を合わせるとにこりと笑顔になる。その笑顔に、喉につかえていた少女の名前がするりと、ごく自然に総悟の口から出た。
「・・・」
名前を呼ばれると、少女、はもっと笑顔になって、もう一度「そーくん」と呼んだ。
「ちっとも変わらないね」
「急に決まったんだよな、おじさんの転勤が」
午前中のみだった内容も終わり、すでに帰宅する生徒も多い中、総悟と、そして近藤と土方が普段剣道部の使用している道場にいた。
「それでこっちのほうに越してくることになったって聞いたから、だったらウチの高校に来たらいいって言ったんだ」
「全然知らないところに行くより、すこしでも知ってる人がいるところのほうがいいよねって。勲君に、トシ君に」
近藤の横に座っているは、言いながら反対隣の総悟を覗き込むようにする。
「そーくんがいるから」
は近藤の親戚にあたる少女だ。総悟が彼女に会ったのは何年か前の夏、近藤が田舎に遊びに行くというのに土方と共に付いていき、そこに同じく遊びに来ていたがいた。
総悟がそこに滞在したのは確か3日ほどだったような記憶があるが、その短い間にすっかり仲良くなった二人は蝉の声のする中、あちこちに遊びまわった。ヒマワリ畑の中で追いかけっこをしたり、スイカを食べたり、花火をしたり。そして総悟が帰るとき、は目を真っ赤に腫らした顔で「ばいばい、またね」と言ったのだ。
「で、土方さんは分かってたわけですかィ」
こうして夢の中ではなく現実にに名前を呼ばれるたびにむずむずとする総悟はのそれには返さず、向かいにいる土方を見た。写真の件だとすぐに理解する土方は「まァな」と答える。
「俺も近藤さんに聞いたばっかだったけどな。去年撮ったんだって写真も見せられて。まさかお前ェがすでに会ってるとは思わなかったが」
「ならあんとき教えてくれりゃァ良かったろィ」
「言わないほうが面白ェだろ」
「ほんとに性格悪ィや」
総悟が例の写真を撮ったころ、はこちらに越してきたばかりで、自分が通うことになる高校やその周辺をいろいろと見て回っていたらしい。納得がいかずむすりとする総悟に、さらに土方が追い討ちをかけてきた。
「で、コイツは剣道部に入るからな」
「・・・・・・は?」
「ていってもマネージャーだけどな。前の学校でもマネージャーやってたんだってさ。頼りになるぞ〜!」
「・・・ウチの部にマネージャーなんか今まで」
「どうせやるなら総悟のサポートがいいって言ってくれてんだよ。ついでに学校のこととか色々教えてやってくれな、頼んだぞ、総悟」
あの日、総悟が近藤の家から帰って言った後、言い出したのは土方だった。滅多に他人に関心を示さない総悟がめずらしく興味を持った女子、おまけにそれが近藤の親戚で、9月から転校してくることになっている。これを利用しない手はないと言ったのだ。
「あいつはとっくに剣道部が気に入ってる。けど自分で近藤さんを理由にし続けてきたから、それがなくなっちまった後の新しい理由に、意味が、まだ見つけられねェだけだ。なら俺たちが作ってやりゃァいい」
大丈夫かな、とそれでも近藤は不安げだった。一度言い出せばなかなか曲げない総悟のこと、が入部するからといって、そう簡単に自分の意思を変えるだろうか。そう言えば土方は、それはもう悪そうな(といっては申し訳ないが)表情を浮かべ、
「仲良かったろ、あいつら。別れたくないって駄々こねて泣くくらい」
そりゃそうだけど。土方の真意はいまいち読み取れないまま、とりあえず近藤は頷いた。
頼んだぞ、なんて言われ、そこで総悟はここへ来てようやくを見た。総悟と目が合うとは「よろしくね、そーくん」と微笑む。してやられた、と思った。
を見た最後の記憶、それが泣き顔だった。幼いながらにもう会えないのだろうと悟った二人は散々にごねて抵抗して周囲を困らせたが、当然大人たちに勝てるわけはなく、を思い出そうとするたびに生まれた痛みはたぶん、そのときの苦い気持ちも思い出されたからだ。
だけどそうして別れたが、今こうして目の前で笑っている。一度再会してしまえば、総悟にもう離れたくないと思わせるのは簡単だった。それがどうしてなのか、自分でも今はまだはっきりとは分かっていないけれど。
「・・・分かりやした」
ちいさく総悟が答えると、と近藤が揃ってぱっと顔を明るくした。その中で全く変化のない表情の土方を見れば、やはりやつの差し金だったのだろうと総悟は内心で舌打ちをする。
仕方なくだ。近藤に頼まれたから、仕方なく。今までは部にいた理由が近藤だったけれど、それがに替わるだけのこと。別にそれ以外はなにも変わらない。
それでも。
「じゃあ明日からは、毎日会えるね」
そうに嬉しそうに言われてしまえば、自分も嬉しいと思うのは止められなかった。むくむくと総悟の中に沸きあがるのはこれからへの期待だ。
との思い出は青い空をバックにした入道雲、背の高いヒマワリに蝉の大合唱、そんな夏のものばかりだったが、明日からは違う。季節は徐々に秋の色を含み始めていた。
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(ソノエ/2009.9.21)