家に帰るころには止んでいるかも、というの期待もむなしく、昼過ぎから降り出した雨は変わらずに地面をぬらし続けていた。近藤の道場での剣術稽古はの日課、今朝もろくに天気を調べることなく家を出てきてしまったので、外を見に行き空を見上げてはまた道場の奥に戻るを繰り返すに気付いた近藤が、「どうした、」と声をかけてきた。
「帰らないのか?」
「・・・傘、ないの」
「ああ、なんだ。それならウチのを、・・・いや、ちょっと待ってな。おーい、総悟」
振り返りながら近藤が名前を呼ぶ。え、と思うが近藤の身体の横から顔を覗かせると、道場の向こう側にいる少年の姿が見えた。この道場に通う面々の中で唯一、と同年代の存在。けれどその赤茶色の瞳と目が合うと、はすぐに近藤の背中に身を隠してしまった。
「なに?」
「がな、傘を忘れたらしいんだ。総悟、お前送ってってやれ」
えええ、と思わず近藤の後ろ頭を見上げる。の視線に気が付いたのか、ちらりとこちらに目を合わせると、にか、と笑った。笑顔をみせられたって、の困惑は消えない。もう一度少年を覗き見れば、相変わらずを見ていて、またすぐに隠れてしまった。
「なんで俺?」
「おいおい、お前今日、雑巾がけの当番だったの忘れてたろ?代わりにがやってくれたんだから、そのお礼はしなくちゃだめだぞ」
「・・・」
「どのみち通り道なんだし、いいだろ?明日ちゃーんと聞くからな、頼んだぞ、総悟」
はなんの返事もしていないのにさっさとそう決めてしまった近藤は、「ほら」と背中を押して総悟のほうへと近づけた。緊張し身体を硬くするを黙って見つめていた総悟はやがてくるりと向きを変えると、一度だけを振り返る。
「早くしろよ」
「え、あ・・・う、うん」
もう一度近藤を見上げるも、置いてかれるぞと笑っているだけでのとまどいを分かってくれているのか甚だ疑問だ。だけど総悟はすたすたと歩いていってしまうので、仕方なしにその背中を追いかけた。どうしろっていうんだろう、近藤さんの考えていることがよくわからない。だって自分たちは、まともに喋ったことだってないと思うのに。
毎日のように顔を合わせているわりに、と総悟との間にほとんど交流はなかった。決して仲が悪いわけではなく、単純にどう接すればいいのか分からない、というのがの本音だった。よりも以前から道場に通っている総悟だったが、だからといって何かを教えてくれるわけでもない。基本的には近藤の周りをうろちょろしていることが多く、土方と話しているときは特に怒りっぽい、そんな彼と仲良くなるきっかけがつかめないのだ。
仲良くなれるのなら、もちろん仲良くしたい。だから今こうして雨の中を総悟とふたりで歩いている状況は、またとないチャンスかもしれなかった。そんな状況を近藤があえて作り出してくれたのだということは、残念ながらまだには分からなかったが。
「・・・・・」
「・・・・・」
だけれど、いくら仲良くなりたいと思っていたって、今までの距離が微妙だっただけに、いきなり気安く話しかけられるわけでもない。総悟の差す傘に雨がぱたぱたと跳ねる音が、この空間の沈黙をすこしだけ和らげてくれているものの、気まずさはあまりなくならなかった。おまけに当然ながら総悟の傘は子供用の一人分、どうしても傘からはみ出してしまう袖がじんわり濡れてきて、それもなんだか居心地が悪い。
(どうしたらいいんだろ)
何か話さないとと気持ちばかりが焦って、難しい顔のまま黙り込む。そんなの様子をこそりと隣で伺っていた総悟が、不意に口を開いた。
「そこ、石」
「へ?」
なに、と訊ねる前に、足がその石ころに躓く。わ、と声を上げながら傾く身体は、総悟が腕を引いてくれたことで、転んでしまうことはなかった。驚きに詰めていた息をはあ、と吐き出し、助けてくれた総悟のほうを見ると、この帰り道で初めて目が合う。今までにないくらいに間近で見る彼の瞳はいつもよりもなんだかきれいに見えて、それがなぜだか恥ずかしい。
「あ・・・あ、ありがとう」
「・・・別に」
「・・・・・」
「・・・お前、いつもそんなだな」
「え?」
道の真ん中に立ち止まったままで、続けられた総悟の言葉に首をかしげる。総悟は傘を持たない手で頭をかくと、だから、と言った。
「危ねェ」
「え?わたし?」
「なんか・・・転んだりとか、よくしてるだろ」
「・・・そうかなあ」
「なんだよ自分でわかんねェのかよ、ばかだな」
飛び出た言葉に一瞬目を丸くしたが、そう言う総悟の顔がわずかに笑みを浮かべているのに気付けば、一気に体温が上昇したみたいだった。歩き始める総悟にあわせも足を動かしながら、思い切って話しかけてみる。
「そ、そんなに転んでる?」
「しょっちゅう。あと、いつも道場の隅ですべるだろ」
「あ、うん!すべる!」
「あそこ、昔っからすべりやすいんだ。だから皆通らないようにしてる。他にもあるけど、そういうとこ」
「え、あの、じゃあ!そういうの、そういうのだけじゃなくて他にもいろいろ、教えてくれる?」
言うなら今しかない、最高のタイミングで言えた、と思う。いつの間にかの家の目の前まで来ていたので、立ち止まって総悟を見た。総悟がすこし目を丸くしたように見えたが、すぐにふ、と逸らして「明日」という。
「明日?」
「明日もまた、雨っつってた」
「・・・。そうなんだ」
「・・・迎えに来てやる」
「え!」
「水たまりが出来やすい場所もあるから、そういうとこで転んだら汚ェだろ。迎えっつーか、どうせ通り道だし、教えるのついでに見張りに来るだけだかんな」
「うん、うん!待ってるね!」
思いがけない申し出に飛び上がらんばかりのが声を弾ませながら言えば、そっぽを向いたままの総悟の耳元がほんのりと赤くなったように見えた。けれどすぐに身体の方向を変えると、「さっさと家入れよ」と言い残して去っていく。その後姿を見送る間、雨の冷たさなんてこれっぽっちも感じなかった。
雨の音、二人きり
「で、なんでお前ェは傘持ってねェんだよ」
スーパーの軒下で空から零れ落ちる雨粒を見上げつつぼうっとしていたに、そう声がかけられる。すぐに笑顔を浮かべ、上に向けていた顔を正面へと戻した。
「えへ。お迎えありがとうございます、沖田隊長!」
「自分でメールよこしたくせによく言うや。つーかやめろその呼び方、気持ち悪ィ」
「だって仕事中に総ちゃんって言うと時々、土方さんが怒るんだもん」
「そりゃァ他に誰かいるときだろィ、今は別にいいんじゃねぇ?」
「そうかな」
言いながら、はごくごく自然な動作で総悟の差している傘の下に入り込む。総悟も特別それを気にする様子もなくそのまま歩き出したが、ちくりと棘を刺すことも忘れない。
「今日は朝からいかにも雨降るって天気だったぜィ」
「だってさぁ、朝、慌てて出てきたから、そんなことすっかり忘れててね。そういうときに限って見回りも一人なんだもん」
「けどガキの頃も、分かってるくせに傘持って来なかったりしてただろィ」
「あれはだって、総ちゃんが傘に入れてくれるからって思ってたし。今日はわざとじゃないよ」
「じゃあ昔はわざとだったわけか」
「違うってば、いつもじゃないもん」
「じゃあ時々はわざとだったわけか」
「も〜〜、揚げ足ばっかりとる」
ぱし、と総悟の肩を叩いてくるの袖を濡らさず歩けるようになったのは、もう何年前になるのだろう。と二人で話せることが楽しくて、姉に不思議がられながらも、てるてる坊主を逆さまに吊らしたことだってある。いつの間にやらが自分で傘を持つことをさぼって、雨の日はすっかり総悟に頼るようになってしまったのも、それを分かっているのにちっとも悪い気がしなかったのも、だからつまりは、初めて会ったときからちょっと、気になっていたのだと、思う。
「とにかくガキからの入れたら、ツケがすげえ溜まってんでさァ。そのうちまとめて払ってもらうからな」
「え〜〜〜、そんなこと言って、総ちゃんだって楽しかったんじゃないの?」
「ばっかじゃねえの」
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(ソノエ/2009.5.5)