七月八日〜七月九日     番外 最終愛歌 約束
 〜 いつか、いつも、いつまでも。誓う誓い。小指より、結んで想いを歌い続ける"愛の歌。"は、永遠に・・・。







 ガタタと揺れる車内。疎らとは乗客の中にひとり車窓に流れる懐かしい風景をじっと見つめていた青年は、間もなくと到着駅を告げる車内アナウンスを耳に聞き小さく欠伸を洩らした。数時間と使うことをなくした額のアイマスクを剥がすと、そうして目の前の座席へと視線を移す。そこにあるのはふたつの風呂敷包みだ。ひとつは自身のもの。もうひとつは自身のそれよりは僅かに大きめのもので、こちらは江戸を発つ前に頼むぞと豪快な笑みに言われ預かってきたものである。
 キキっと硬く鉄の車輪が擦れる音が足元に響く。次第におさまる列車の揺れに、よろけることなくしっかりと座席より腰をあげた青年は、伸ばした手に目の前にあるその荷物を手にすると、続けてぷしんと開いた扉にむけて歩き出した。
 「そーちゃーーんっ!!」
 足元に段差を見て列車を降りる。顔を上げ辺りを見回すまでもない。自身を呼ぶ大きな声はだいぶ離れたところより、ホーム(というほどの大きさではないが)に片足をついてすかさずにかけられた。ゆっくりと青年はその方を見遣る。そこにはひとりの娘の姿。ぶんぶんと振られる手。こちらへと駆けて来ながらの笑みは大きい。辺りは閑散としたものだ。ぶつかるものなど何もなく、なのに途中に蹴躓き慌てて体勢を整えるその姿には思わずふっと息を吐く。変わんねェ。そう心中に呟けば、して自らも娘の方へ向けゆっくりと足を踏み出す。
 「なにしてんでィ」
 それは呆れ声、けれど言葉に角のないやさしい咎めるだ。
 躓いた片の足をあげ草履の爪先をしきりに気にしていた娘は「痛ぁ」とごちては顰めていた顔を、そんなふうにすぐ傍にした青年の声を聞いて一変させた。「そーちゃんっ!」とはふたたび満面の笑みで前を仰ぐ。
 「おかえりっ!!」
 まるで貝合わせ。大きくつぶらな眸同士がその視線をぴたりと合わせての会話は、調子の高い娘の声にもう片の青年に声はない。その代わり彼からはただやさしげな眼差しに「ただいま」の四文字が紡がれる。
 「おかえりおかえりっ!!」
 二つの眸はよく似ていた。それだけでないその顔も大変よく似たもので、だがけれど違う。二人は別個。なのにでも、二人でひとつ。一年ぶりの、再会だ。
 「そーちゃんそーちゃっ、」
 「元気にしてやしたかィ」
 同調。その声は重なり一瞬きょとりと二人して口を噤みするものの、先に笑い出したのは娘の方だ。「この前話したばかりだよ」とは揺れる肩で答える。
 そんな事はわかっている。けれど訊きたかった。器械を通してではない、一年ぶりのその声でその顔を目にして聞きたかった。娘の声にはそんなふうに思い少しばかり機嫌を損ねる青年である。
 娘は肩の振れをはあと大きく息を吐く事で抑えた。その顔を見て「ごめんね」と自身同様に大きな灰青の眸に竦めた肩で言う。改めてとはこう続ける。
 「元気だったよっ!」








 「総悟。ちょっと来い」
 それはふたりの再会より数日前のことだ。いつものように市中廻りを終え屯所へと戻ってきた総悟は自室へと続く廊下に後ろの部屋より顔を覗かせた近藤にそんなふうに声をかけられて足を止めた。「なんですかィ」とは気のない声で返す。
 「いーから来い。話がある」
 見廻りがてら小腹も満たしたし、あとは昼寝ときめ込もうとしていた。総悟はそれをするのを阻まれてちっと心に舌を打つ。けれど大きな手が早くと自分を手招くのにはどうにも抗えずだ。渋々ではあるが元来た廊下を引き返す。近藤の顔が覗いた部屋の前まで来ると、中までは足を踏み入れずその場に立ったままで訊ねた。
 「話ってのは?」
 胡坐をかいて刀の柄にころころと畳上のゴミを拾っていた近藤は、それには刀より自身の前を目に示して「まあ座れ」と呟いた。
 顎鬚を蓄えたその顔はどこか楽しそうに見えた。総悟はそんな近藤の様子を多少いぶかりながらも次は言われたとおりに部屋へ足を踏み入れる。腰をおろした。
 暦は文月。今は七月と月を変え日は浅くまだまだ梅雨の明けきらぬ頃だ。だがその目にのぞむ庭は明るい。久々に見る太陽に晴れの陽は眩しくて暑いぐらいの陽気だ。
 暫し静寂のち近藤の手が止まる。粘着面いっぱいについたゴミ、否縮れ毛を目の前に翳すと小さく愚痴る。「誰だ」。それを聞けばすかさず総悟が口をあく。
 「近藤さん、誰んじゃねェ。そんなん大量に落とすのはアンタしか居やせんぜ」
 「なっ、バカ言うな総悟。俺のはもっとこうなんていうんだ?品がある、こんな下品じゃねーよ」
 「そんなんに品も下品も聞いたことありやせんぜ。言い訳はいーでさァ。で、話ってのはなんなんでィ?」
 違うと否定の言葉もなあなあと流される。それでも近藤は言い返そうとして、けれど最後に総悟から本題を訊ねられれば「そうだそうだ」とひとり相槌を打つ。手にした刀は脇に置く。すっとは一拍間を置くように鼻から息を吸い込んだ。
 「あのなァ総悟、」
 「へぃ」
 「お前にちょっくら頼みてェことがある。引き受けてくれるか?」
 「頼み事ですかィ?ってーと、仕事かなにか?」
 「ああ?・・・ああ、仕事っていやあ仕事だが・・」
 庭を見るのをやめ総悟は何かを言いよどむ近藤へと視線を移した。じっとその様子を窺う。わずかに八の字眉で口を噤んでいた近藤は、大きな眸に自身のそれを合わせるとふうと口から息を吐く。どういう意味だと話の先を訊ねられているのは、声に出し言われずともその目にわかった。黙ってるわけには、いかねぇよな。
 「なに、俺個人の頼みごとって言えばそうかもしんねェんだがな」
 「・・近藤さんの?」
 「そうだ。こいつをあるところに届けて貰いてェ」
 「こいつ?」
 眉を顰める。総悟の前には近藤があらかじめ自身のそばに用意していた四角を包んだ風呂敷が置かれる。「こいつは?」とはまた総悟が口を開く。
 「中身はたいしたもんじゃねえ」
 自身で今差し出したそれを総悟の前に眺めながら近藤は穏やかな声と表情でそう呟いた。「なんでィそらァ」とは訝しみに少しばかし口を尖らせる総悟の顔には、なら俺じゃなくてもいいだろうというのが、これまた声に出さずともありありと浮かんでおり、それを覚れば近藤はさっきよりも八の字に眉を下げて言う。
 「総悟、俺はお前にこいつを届けて貰いてェんだ」
 いくらか強調された「お前」に総悟は一度包みより近藤へと視線をむけてはすぐにまたその目を元へと戻した。たいしたものじゃあない。近藤はそう言っているが、実のところはどうなのだろう。そのわりにその声も表情も随分と真摯なものじゃあないか。
 どんなに目を凝らしても眇めて見ても透視などできるわけがない。そんなことはわかっていた。けれどそこまでしてこれを自分に届けさせたい彼の拘りが気になる。気になって仕方ない。
 「近藤さんがどーしてもってなら、俺は別にかまやあしやせんぜ」
 近藤がどうしてもその中身について教える気がないのであれば、あとは自分の目で確かめるしかない。幸いにもそれを包むは一枚の風呂敷のみのようだ。ならばあとでこそりとそれを解き中を覗けばいい。なに、風呂敷を縛るくらい誰だってできる。紙で包まれたそれならば元に戻すは困難でも、これならばどうとでもなる。
 「そうか。引き受けてくれるか」
 「かまいやせんぜ」
 そんな総悟の裏を知らず了承を貰えた近藤はほっとしたように肩の力を抜いた。眉は八の字を解く。だがそれはほんの束の間で、「で、今ですかィ?」と続けて総悟に問われては、肩も眉もなにもかも、ふたたび一寸前の元にして慌てたように首を横に振る。
 「違うちがうっ!今じゃねェ」
 「なら、明日ですかィ?」
 届けるのはいつだってかまわない。それよりもさっきから包みの中身が気になって仕方ない総悟は、近藤の慌て様を気に留めるふうもなくいつもどおりの淡々とした口調で応えた。その目ももちろん近藤でなく風呂敷包みを向いたままで、だが次に返って来た言葉にはぴくりと片の眉をあげる。おもむろにその目を傍らの近藤へと向ける。
 「明後日だ」
 「・・・場所は?」
 「・・武州だ」
 明後日と近藤が口にした時点で場所などわざわざ聞くまでもなかった。けれど総悟はわざわざでもそれを問うて、やはりとは今度は盛大に眉を顰めた。息つくことはしない。崩した胡坐の足元に視線を伏せると、訊ねるじゃあない。ぽつりと低く呟いた。
 「どういうこってィ」

 ──── 近藤の言う明後日とは七月八日。それがいったい何の日なのかといえば、総悟の誕生日だ。そうしてもうひとり、彼と同じにその日に生まれた者が居て、それが誰なのかといえばもちろんそれはだ。
 一年前に江戸へと一週間ばかりやって来た彼女と総悟は幼い日からの想いをそのとき漸く重ねてひとつとし、今は離れた距離にある。けれども想いは変わらない。あの日からなにひとつ変わってはおらず、互いに互いが大切で特別な存在と想う間柄なのは本編にご存知の通りだ。否、あの日からでは誤りだ。もっとずっと遠い昔から、二人が最初に出会ったその日から、二つの想いはいつでも一緒。一つだったのだから。

 そこまで聞けば馬鹿じゃあない。包みの中身がなんなのかなど、それを解くことをしなくともはっきりとわかる。わかりすぎる。
 呟きをしたのちだんまりをきめ込む総悟の傍らにふうとは近藤の鼻からつく息が深く落とされる。「総悟、」。呼ぶも返事はない。もちろん自分を向くでもない彼へと近藤が続けるその声は諭すように静かなものだ。
 「お前、ミツバ殿の墓参りも行けてねーだろう」
 たしかに近藤の言うとおりだった。総悟は病院で姉であるミツバの息を引きとるのを見届けたあと、その後武州より共に江戸へとやって来た者たちを中心に屯所にてとり行われた葬儀までは当然参席していたが、肝心の故郷武州に骨を埋めるのには事件の後始末に追われ立ちあってはいない。近藤たち皆は自分たちに任せ気にせずに行けと彼にそう言ったのだが、総悟はそれを断った。その為武州に墓参りへは今の今まで一度も行っておらず、むこうのことは年老いて残る近藤の父と長い付き合いもありすべての両親である夫妻に任せている状態だ。
 命日だけならず先だって姉の誕生日にも江戸を離れられない自分の変わりにが総悟の分までも彼の想いを持っては拝むをしに行ったこと、これは番外にご存知のとおりだ。

 たしかに。それは総悟も心にごちる。けれどその後ろには小さく「だが、」と続くのだ。
 姉上の墓参りもしたい。もちろんだ。そしてにも会いたい。逢いたい。会いたくない日などあるものか。だがそれだけを理由にし武州へと戻る事は自分の心が許さない。誰が許しても、自分の心は許さない。頑なだ。そんな弱さに負けたくない。負けてなどいられない。
 振り返らないでと、姉であるミツバは最後にそう言っていた。立派になったと、こんな自分を私の自慢の弟だと言い残しその息をひきとった。だからこそ、だからこそだ。振り返らない。会いたい思いはある、けれど実際そんな寂しさになど負けてはいけない。いられない。武州へは、戻らない。それが、それだけが自分にかかりきりとなり嫁ぐも満足にできずこの世を去ったミツバへと自分ができること。姉上が褒めてくれた自慢の弟のままでいたい。
 総悟は姉であるミツバとの別離のあとにはそんなふうな考えを随分と強く持って今までを過ごしてきていた。

 「もう一年だ。早ェもんだなァ」
 一度はわずかに俯いて顔をあげる。庭の方へと目を向けて遠い眼差しに呟いた近藤のそれに、総悟はようやく伏せた顔をあげ同じように庭の方をむいた。細めた眸で思う。近藤の言いたいことはよくわかる。ようくわかるのだ。だが。
 『そーちゃんっ』
 一年前、この庭に見たの振り返りそんなふうに言う姿は総悟だけでなく今このとき近藤の目にもはっきりと見えていた。彼は呟く。今度は諭し声でなくただやさしい声で言う。目に見る一年前のその笑みにはすっかりと目尻をさげて。
 「喜ぶだろうよ、」
 静かな近藤の声を聞いても総悟は黙ったままでいた。続く言葉には一切の口を挟むことをせず、自身の目に映る一年前のの笑みをただじっと見つめたままだ。
 「なあ総悟。行って来い。お前はよくやってらァ。助かってる。お前が居てくれて俺は、・・・俺たちゃあ本当に感謝してる。だから行って来い。他の隊士だって有休使っちゃあうまく息抜きしてんだ、お前ェも少しくれェ休んだってかまやしねェ。罰なんかひとっつも当たるこたァねーんだ。だから行って来い。アイツはこの手のことが大好きだ。それは俺よかお前の方がよーく知ってんだろう。誕生日ともなりゃあそりゃあ半端ねぇ喜ぶに違いねェ・・・いや、違うな。・・・アイツだけじゃあねーよ、総悟。ミツバ殿も、弟の元気な姿見れりゃあそれは大層、・・・喜ぶだろうよ」
 返事がないのは承知のうえだ。近藤はゆっくりとした調子でそれを言いきると、以上は何も語ることをせず口を閉じた。そうして待つ。何分でも、何時間でも。総悟、俺は待ってやる。
 彼は心にのみそう続けると、崩した胡坐の片を立て、膝の上に顎を乗せさっきからだんまりと庭を見つめたままの総悟を見守ることにした。急かしはしない。無理に行くことを頷かせるでもなくひたすらに答えを待つ。
 近藤は総悟の性格をようく理解している。まだまだ若い総悟がその心になにを思いなにと葛藤しているかなどは重々にわかっていた。だから待つ。今は何も言わず次に開いた口に彼の心の声を聞けるまではとにかく待つしかない。なに焦ることはない、ゆっくり考えろ。

 『そーちゃんっ!』
 『そーちゃん』
 一方総悟はそんな近藤の想い通じてか普段このような話になれば即行かないと答えその場を立ち去ることをするのに今はそれをせず考えていた。深く深く考え込んでいた。その目には触れれない一年前のの姿を見つめたまま、頭にはもうひとつの笑顔を見る。その耳に自分を呼ぶ二つの声を聞きながら、考えていた。
 ひとつに結んで頭頂部。自身にも良く似ているがやはり性別は大きい。違(たが)うはほぼ声のみだ。性格は別として髪型のみならず良く似ている二つの笑顔はどちらも総悟の大切なもので、かけがえのないものである。
 姉であるミツバの今はもう聴くことのできない声。けれど一生忘れる事などできるわけがない。否、したくない。・・・しない。その声はいつだってこの耳にこうして蘇らせることができて、たとえ実体がなくともこの胸にいつだって居る、一緒に居てくれる大きな存在で。守りたい。
 姉とした最後の会話は指を切り交わしたわけではないけれど、そのひとつひとつを想い重く受け止めて総悟は大切に思っている。彼のなかでそれは約束のようなものとなっていて、だけれどもも大切で大きな存在なのは違いない。いやむしろそれ以上。強く護りたい。
 どちらかひとりではなくどちらもだ。守りたくて、護りたい。その意味は多少違ったものであるとしても、同じ"まもりたい"に変わりなく、いったい俺は、どうしたらいい。

 「近藤さん、」
 ずいぶんと長い沈黙を打ち破るその呼びかけに近藤はどうした?とはやっとで自分を向いた大きな眸に目で応えた。それをされふっと総悟の口がほころぶ。
 「こんなこと聞いちゃあ笑われちまうかもしんねェんですが・・・」
 弱々しくなってゆく語尾に灰青の目は伏せられる。「笑いやしねえよ」。近藤はそんな彼を見つめたままに呟いた。誰が笑うものか。
 本当ですかィ?そんな声の聞こえてきそうな眸がまた近藤をむいて、次に彼は温柔の眼差しを総悟へと注いでは静かに頷く。
 「・・・会いてェ」
 "・・・そうだろう。"
 「会いてェ、にも姉上にも、スゲー会いてェ・・・」
 "それで、いいんだ。"
 ぽつりぽつりの呟きは一時刀をもつ事を忘れた直に十代を終える青年の素直な心の声だ。所々それは笑みを混ぜて呟かれ、近藤はほっとする。
 いつだって総悟はひとりですべてに立ち向かおうとして気を詰めて、それを緩めることをしない。表は時にやんちゃな顔を覗かせたりもして騒ぎとなることもしてくれるが、そういうことじゃあない。そうじゃない。本当に心から安らげる時間を近藤は総悟にあげたいのだ。
 もうガキじゃあないと受け取ってはもらえないだろう贈り物。年に一度だ。昨年見た朝方の部屋で安心をそばにしてアイマスクなしで眠ることをしていた彼を忘れられない近藤は、いっぱいいっぱいに引かれた総悟の心の糸が切れてしまう前に、ああして時に気をゆるめることも大事なのだと、そう教えたいでいた。それは悪い事ではないのだと。
 張って気に籠めて要らぬ肩の力は我慢した彼の素直な想いだと近藤は知っている。それを押し込めてほしくない。自分にもっと我が侭でいいのだ。心許せる相手の前で、その性格上甘えるまではいかずとも、ただそばに居るそれだけでいい満ち足りた思いとなれる時間もまた大切で、そんなふうにする時間を持つことはけして悪いことではないのだと、近藤は教えたいでいた。
 ひとりで突っ張るな。お前はひとりじゃあない。いつだって俺達が居て、愛しいと気を張らず心安らげる特別な存在のが居る。だからもうひとりでそんなに強がるな。そんな片意地は、要らない。
 溶けかけた総悟の想いを耳にして近藤はそんなふうに心で応えた。「近藤さん、」。呼ばれてはなんだと返す。
 「けどね、けどコイツぁ、」
 だがやっとで聞けた素直な想いも、ここにきて総悟の声には硬さが戻る。食いしばる奥歯に口端は歪み項垂れた姿はふたたびの自身内側に葛藤の辛苦。
 「弱さじゃ、弱さなんじゃ、ねーんですかィ・・・」
 おもむろに瞬きはひとつ。項垂れたかたちよりむけられる目はさらりと亜麻色の前髪の隙間よりまるで泣いているように見える。それには近藤の胸は締めつけられた。
 誰かに答えを乞う。普段はこんなことをするような総悟じゃあない。否、そうではなく、できなかったのだ。いや、しないと言ったほうが正しいか。いつだって総悟は自分に自分で答えを出してきた。ひとに弱みを見せることはなかなかなく、それをせずして生きてきて、それはミツバの死にたずさわりし一件でだいぶ改善されたようにも思えたが、それでもまだまだひとりで抱え込むの姿勢はどこか変わらずなままだ。そんな総悟の強張る肩を、完全にほぐし心溶かし大きく包み込むことを嫌みなく自然としてやれるのがなのだと、揺るぎない確信を近藤が得たのは昨年のことだ。だからこそ行かせたい。行ってほしい、総悟。行って来い。
 「そうだな、そいつァおめェの言うとおりたしかに弱さだ」
 「やっぱ、そうですかィ」
 「ああ。だがな、総悟。そいつは認めていい弱さだ」
 「近藤さん、弱さに認めていいもなにもあったもんじゃねェ」
 「馬鹿だなおめェはよ。だからトシにいつまで経ってもガキ扱いされんだ」
 泣いてるように見えた眸はそれを聞き「ガキじゃねー」と鋭く色を湛える。近藤はそれを見て頬をゆるめた。傍に大きく手を伸ばしがしとは掌に総悟の頭を撫ぜる。ガキだ。でなけりゃあ、そんな顔はしねぇ。
 嫌がる総悟のその顔にまだ武州幼き日の彼を思い出し重ねる。近藤はさらに頬をゆるませた。彼の中で総悟は、どんなに年を重ね体躯こそ大きくなろうともあの日のままだ。変わらない。見た目にはもう立派に大人なのだとはわかっている。けれどそれでも、近藤の中で彼はいつまでも子供のままなのだ。
 わしわしと最後に盛大に亜麻色を玩びその手を剥がす。そうして近藤は「総悟、」と口を開く。それには総悟はぶすりと不貞腐れた表情をむける。
 「刀を握る時俺らはいつでも恐怖を感じる。感じねーことなんてねーだろう?お前も。これだって弱さだ。が、感じて当たりめェだ。これっぽちも恐怖を感じれねーヤツにそれ以上の強さは望めねェ。俺はそう思ってる。怖ェって玉が縮むくれェ手前の弱さ自覚してだからこそ強くなれんじゃねーか。俺は弱ェ、いーじゃねェか。弱くて結構よ。だったらもっと強くなってやりゃあいい。そいつを認めて今より強くなりゃあいい。そうだろう?」
 不貞て顔はそのままだ。今してるのは刀の話じゃないだろうの言葉には、近藤は横に大きく首を振る。違ぇーよ。
 「同じだ。刀もなにも手前が今に会いてぇって思うのもミツバ殿に会いたいってのもぜんぶ一緒だ。認めていいもんだ。認めてそっから強くなれ。お前のまもりてーもんは手前の魂(心)だけじゃねーだろう?格好つけてどうすんだ。そんな意地は要らねぇ。大事なもんは全部まもれ。手前の気持ちごと全部まもれ。自分の気持ちひとつ大事に守れないようなヤツに他のもんなんてまもれやしねー。だから、」
 "行って来い。"
 屈強の精神。弱さを見せない侍魂。腕は確かで、組におきそれは随一。けれどその裏はやっと今年で二十歳となるひとりの青年だ。幼い頃に両親を失くし、実の姉をも早くに亡くし、この世にもう血の繋がった身内はおらず、孤独の身。それでも強さを装って見せ、必死で。折れそうにならないほうがどうかしている。おかしいのだ。きっと、いや絶対に誰一人弱みを見せても組の者は総悟のことをどうこう言ったりはしない。それは本人もわかっている。わかっているのだが、できない。したくない。ずいぶんと長いことそうして虚勢に肩を張り生きてきたのだ。大人に混じり背伸びして生きてきたのだ。心でいくらわかっていても、そうやって積み重ねてきたものが易々と崩せるわけもない。それを唯一できる相手はただひとり。総悟にはしか居ない。幼き日から彼女だけだ。彼女の前でだけは、それができた。
 年に一度。それは牽牛と織女のようなもので、二人の想いを重ねた日、その日に会いにゆくくらい誰が咎めようものか。そんな者、誰もいない。一番に咎めるは自分自身で、なぜ?なぜそんなに自分はそこに意地になる?わかっている。わかっていた。自分が気にしているのは、最後にひとつ心に蟠るそれは、そんなことじゃあない。素直になっても、正直になっても・・・いいのだろうか。
 近藤さん。総悟はまだ笑ったままの近藤へ向け最後の質問と声をかけた。「けど姉上は、」。そこまで言いかけると口をつぐむ。近藤はそれ以上彼の言葉が続かなくともなんとなくだが言わんとしたいことを察する。きっと、無駄に長い説き伏せるは要らない。総悟が今欲しいのは、たった一言だ。大丈夫。
 「お前がさっぱり来ねーってミツバ殿七味みてぇに顔赤くして待ってんぞ」
 振り返らないでと、前だけを見てとミツバはあの日息を引きとる前にたしかに総悟にそう言った。そんなあなた達を見ているのが好きだったと、幸せだったとそう言った。けれど違う。総悟がひとり思い悩むような意味とは違い、ミツバは彼になにも武州へと、まったく過去を振り返るなと、そういう意味で言ったのではないと思いたい。去り際に吐いた自分のそんな一言に囚われて、可愛い弟に寂しさや愛おしい者へ会いにゆくのを我慢させたくて言ったわけではない。ただ、彼女もただ一言総悟にこう伝えたかったのだと思いたい。大丈夫。あなたはあなたらしく、そーちゃん。
 "頑張って。"

 行きやす。なにかに吹っ切れたように総悟がそう言ったあと近藤は嬉しそうに「そうか、頼まれてくれるか」と返した。だが総悟はそれには首を振る。頼まれるはしやせん。近藤は「え!?」と驚いた顔をして傍らに腰をあげた彼を仰いだ。
 ぽかんと間抜けな顔を見る。「なんて顔してんですかィ」とはいつもの調子で総悟が言う。それのどこを見てももうさっきまでの苦しげに沈んだ様子は窺えない。随分とすっきりし晴れやか、なのかどうかは申し訳ないがよくわからない。なぜなら普段どおりに戻ってしまえば、総悟はポーカーフェイスで、それに何かを察するなんてことはなかなかに困難。簡単にはいかないからだ。

 「どこ行くんだ!?」
 さっさと自分に背を見せて部屋を出て行こうとする総悟に近藤は慌てて声をかけた。すれば彼からは「土方さんとこ」と平淡な調子で返って来る。トシ?と首をかしげる近藤へ総悟は足を止め振り返ると言う。両の手を隊服のポケットに納めながら。
 「どうせあの人もグルなんでしょう?仕事に託けりゃあ俺が行くしかねーと思って。ったく。だが俺はそいつァ引き受けやせんぜ。きちんと手前の有休使って行って来んで、」
 「総悟、」
 「んじゃ、ちょっくら俺ァ休みの交渉に」
 余計なことしてくれんじゃねーやィ。そんなふうには胸にごち、だがお膳立てて気持ちはあり難く嬉しく思っている総悟である。
 近藤の頼み。俺個人の頼み。いやそれは違うだろう。土方も、ここ真選組に属し隊の者全員の願い。行って来い。それを総悟はわかっていた。だが素直じゃあない。面に出してしまう前にだから彼はふたたびさっと踵をかえす。留めずに前の隊服上着の裾はそんな動きにひるがえる。歩き出した黒の背とその肩にさっきまで乗っていた重たいはもう窺えない。
 それを見てほっと安堵を浮かべた近藤の顔は、だがすぐに焦り顔と変わる。ばたばたと畳を這い廊下へとは四つん這いに顔を覗かせると、総悟の後ろにはしぶとくこう声をかけた。
 「ちょっ!!ちょとそぉごォォ!!俺のもちゃんと持ってってねっ!!にちゃんとプレゼント持ってってねっっ!!!!」








 駅を抜け武州唯一の白と黒を渡ってしまえばあとは長閑な町なみがしばらく続く。一年ぶりの再会を果たした青年否、総悟と娘否、はその道を並び行く。背比べ手振りつきの「また伸びた?」に「さあ」と返事は素っ気ない。だがその声はやさしくて・・・、でも、残念なことにない。
 「お前が縮んだんじゃねーのか」
 「わっ!?なにそれそーちゃんひどいよっ!!」
 「あれれー?どこいっちまった?が見当たんねェ。ー、ー」
 「わーもうここに居るよここここっ!てかすっごいわざとらしいなっ」
 ぴょんぴょんと跳ねる度に結わえた一房が揺れる。ここだと膨れ面で主張を続けるは面白い。総悟は意地悪く探す振りを続けた。だが次の瞬間ばしっと鈍い音があがる。それは総悟の白々しさに堪らずが足で彼の脹脛を後ろから蹴った音だ。「なにすんでィ」。総悟はへとそう愚痴た。わずかによろけた体勢を直す彼を見てフンと彼女は鼻を鳴らす。続けてイーと歯をむき出しにする。目一杯の外方はぷいっと前にむけられる。
 「覚えてやがれィ」
 「もう忘れたもんねーだ」
 何年も前から繰り返されているその会話は昨年にはそっくりそのまま江戸の駅をあとにして見れた光景とまんま、一緒だ。どんなに時間が流れても変わらない。なにも変わらない。会えない間も変わらない。総悟はそれが嬉しくて仕方なかった。
 蹴られた痛みなどたいしたものじゃあない。わざと寄せた鼻の皺を消すと隣りわずか下方にある膨れた顔を見おろした。それに気づけば前より視線を彼へと移し「なに?」と首を傾げるの顔は、一寸前のつんを解いてさっぱりとしたものだ。その頬はもう膨れてはいない。総悟は小さく頭を振る。「いんや」とは同じく小さく呟いた。そうして道の先を向く。
 かしげた首を元に戻す。「そう」とごちてまたも前を向いた。
 「みんな元気にしてやすかィ?」
 「うん、元気だよ。そっちは?勲兄とかトシ兄とか!」
 「なんで土方さんだけ声がでけーんでィ」
 「え?そうかな?そんなことないと思うけど」
 「そんなことあんだろィ」
 「ないよ!そんなことしてないもん、それよりねえみんな元気?」
 「・・・さあ」
 総悟の返事は今度こそあからさまに素っ気のないものだ。そんなこと?そんなことじゃあない。微かでも嫌だ。自分以外の名前を今大きく呼ばれることはどうしても嫌だ。たとえそれがの言うとおり自身の勘違いだとしても嫌なものは嫌だ。彼の足取りは自然と幅の大きなものとなる。
 教えてよ!すたすたと先に行く総悟にも慌てて早足を踏む。隣に並ぶとその顔を下から覗き込み、そこにある不貞た表情に気づけばにやりと笑う。ふたたび前を向き鼻を高くして言う。
 「ははーん、そーちゃんアレだ。トシ兄にさてはヤキモチ?」
 にたにたという笑いを隣りに横目見て図星をさされた総悟は「でしょう?」の声には眸を細めた。はさっきの仕返しに備え足元を気にする。だがいくら待っても総悟からの反撃はない。代わりに頭上より呟きはぽつりだ。「妬くに決まってんだろィ」。それを聞けば驚いた。足元を気にするのをやめて隣りを仰ぐ。その目はきょとり。総悟の顔をじっと見つめる。
 「やっと会えたってのに」
 「そーちゃん、」
 「時間は限られてんだ、」
 だから。とはそれ以上総悟の声は続かない。だがにはそのあと彼がなんと続けたいかが理解できた。いつにないさっきの台詞。"俺を見て"。"俺を見なせェ。"・・・そうだ。
 月に一度の電話にが会いたいと言う事は多々。だが総悟からはそれを言うことはそう滅多にあらず、それでもは口にしないだけで同じように彼が思ってくれているがわかるからそれだけで十分だと思っていた。無理にその口から会いたいの言葉を引き出そうとは思わないでいた。
 月に一度の声を聞くはこの前に終ったばかり。けれど先日、月始めに鳴った電話にダメだよと言おうとしてその前に「会いたい」と、「会いに行く」とそんなふうに総悟に言われ、嬉しいよりも実のところ驚いた彼女である。
 会いにゆくのならばまた自分からだと思っていた。彼らの仕事がそれなりに忙しいことも知っていたし、なによりも総悟が自分に会いにくるといった理由のみで仕事を蔑ろにするような人でないことも知っていた。なのにだ。なのに会いたい、会いに行くと滅多にないそれを口にして、こうしてわざわざ、本当にやって来てくれたのだ。自分へと会いに。
 総悟の言うさっきのそれにそんなつもりは毛頭ない。あれはそーちゃんの完全な勘違いだけど、でも。
 「・・うん」
 は小さく頷いた。荷物を手にしていない方の総悟の手がしょんぼりと垂れた頭へと伸びる。そこをぽんとうつ掌はやさしい。わかりゃあいい。いーんでさァ。そんなふうに呟かれる声も手のひら同様にやっとでやさしいものとなり、「ホント?」とは上目に総悟を仰いだ。同じ色、大きな眸がやわらかく微笑んでほっとする。同じように彼女の眸も弧を描く。「行きやすぜィ」。言われて今度は大きく頷くと、元へと戻った総悟の歩幅で、も倣って歩き出す。

 遠い昔。まだ幼なかった二人を見ては仕事の手を止めて声をかけてくれた者達も今ではだいぶ年をとっていた。武州をあとにした近藤らがあの日からここへと戻ってくることはなく、それにはもちろん総悟も含まれる。の隣に並ぶあの頃よりもずいぶんと背の伸び体つきも立派になった青年の姿を見れば、その者たちは作業の手を止め一瞬誰だと訝った。けれどすぐその目は嬉しさに瞠る。見た目と声こそ低くなってはいるものの、そのやり取りは何一つ変わらない。同じ顔。総悟だ。誰もがそう思い、気づいた。
 その呼び方はさまざまで、今呼ばれては恥ずかしいようなものもある。声をかけられる度に微妙な顔をして軽い会釈で返す総悟に、だが誰もそれだけかとは言わない。皺の増えた顔をにこにこと緩めて、ただ一言、元気そうだと続ける。素っ気ない態度など、幼い日より総悟を見てきた者ならば当たり前と知っていることで、大きくなっても変わらないのだと思えば、むしろ逆。そのことに嬉しさを覚える。
 一方、それは総悟も同じなことだった。どんなに素っ気ないを気取っても、心の中に"変わらない。"の嬉しさは隠せない。自分なんて、俺なんて。そんなふうに捻くれてしまいそうになることもあった幼い日。だがどんなに周りを大人たちに囲まれていようとも、いつも傍には唯一同年と幼馴染なが居てくれた。言葉足らずと言われても「おばちゃんゴメンね」「そーちゃん照れてるの」そう言ってはその者たちに彼の想い言ってして歩いてくれて、その為にあまり誤解を受けずで過ごした。
 余計なコト言うなとそのことに対し幼い総悟はそう言ってを咎めることをしたものだが、実のところはそれさえも照れ隠しだ。でももちろんにはそんなものお見通しで、それをされればきょとんとはさっきに変わらぬ仕草で言う。笑いながら。
 『そーちゃんはだって、やさしいもん』
 意味不明だ。今はそんなことを話しているんじゃあない。話はぜんぜん繋がらない。けれどそうは思っても、それ以上の反論を総悟はすることができずで、くすぐったいを心から全身に感じては勝手にしろと口を尖らせる。それは懐かしく、とても愛しい思い出だ。

 「なに総悟ちゃん帰って来たの?」
 「はあ、」
 「こっちにはいつまで?」
 「おばちゃんそーちゃんはね、明日には帰っちゃうんだよ」
 「明日?あれじゃああっという間じゃないか」
 の家を直にして今もこの通り、総悟というよりはの方が声をかけてきたその者に返事を返している状態が続いていた。
 「ね、早いよね」
 それは何の気なしだとわかっていた。顔は笑っていてその声も沈みひとつない昔からよく知るのもので、だが総悟は「早いよね」と時間のことを言われては小さく胸が痛まずにはいられなかった。
 「ね!そーちゃん」
 そのうち、いつの間にか話を終えた二人が自分の方を向いているのに気づけばはっとする。どうしたの?そういったふうに首をかしげるへはなんでもないと首を振り応える。
 明日には会えるかどうかわからないからといった理由に顔を合わせてまだ数分で貰う気をつけての別れの言葉には、総悟はやはりただ頭を軽く下げた。その脇では作業へと戻ってゆくその者の背中に大きく手を振る。「行こうか」と今度は彼女が促しを言う。総悟はこくと頷いた。
 ふたたび二人で歩むを再開。「そーちゃん」。二、三歩とそれをし始めてすぐに呼ばれて隣りより仰がれた総悟は「なんでィ」とそのほうを向いて返した。
 うん。は総悟よりふたたび前をむくとひとつ頷いてから口を開く。
 「さっきさ、そーちゃんおばちゃんの話聞いてなかったでしょ?」
 「んなことねェ。ちゃんと聞いてやしたぜ」
 「嘘だぁ。じゃ、おばちゃんなんてそーちゃんにお願いした?」
 「お願い?」
 鸚鵡返したその顔は怪訝なものだ。嘘はつけない。はほらといったように両の肩をあげてみせるとあきれたように続ける。
 「勲兄たちによろしくって、帰ったらそう伝えてねって、言ってたんだよ」
 「あー、そういやあ言ってたな」
 「うそつき」
 「嘘じゃねェ、ちゃんと」
 ちゃんと聞いていた。そんなふうに続けようとして、けれど総悟のその声は制された。「なに考えてたの?」。ほらねの呆れ色を鋭いに変えた視線に訊ねられ、「なにも」と彼はその目から逃れるように視線を逸らす。
 「そーちゃん、」
 「この辺も変わんねェや」
 「そーちゃんっ!!」
 聞こえていた。なにをどうしても見透かされてしまうのだろうとわかっていて、それでも呼び声に白を切ることをしていれば、最後にもらう咎めの声は随分と厳しいものだ。ぴたりとその場に足を止めたへと総悟は二、三と道を進んでから振り返る。なにやってんだ。とはまだそれでも白を切るように声をかけた。
 「わかるよ、そーちゃん」
 の眼は依然としさっきに見せた鋭さを失ってはおらず、それを言えばぐっと下唇を噛む。自分と同じ。これがもう今日で二十歳なのかと思えば、今に不謹慎と思いつつも一時白を切るを忘れ笑いたい思いに駆られる総悟だ。そんな彼の微かな表情の変化に気づいたからは「そーちゃんっ!」と再度厳しい一声があがる。
 総悟は自らでわざとあけた数歩分の距離を引き返した。ひどく膨れた顔のそばにはふんと鼻で息をつき、その手にの頭を一撫ぜし訊ねる。
 「会わねー方が、よかったか」
 何言ってるの?噛んだ下唇を開放しはおおきく眼を見開いた。意味がわからない。何も言葉を返せずにただ目の前の総悟を見つめた。総悟はが何を疑問に思っているのかわかる。だから続ける。
 「たった一日、いや、一日もねーんなら。やっぱ会わねェ方がよかったんじゃねーかって、」
 「・・な、そんなことないよっ!!なんでそんなこと言うのっ!!」
 「なんでって、なんとなく」
 「なんとなくでもそんなことないよ絶対ないよそーちゃん嬉しいよっ!!私一日でもそうじゃなくても会えたら嬉しいよっ!!そーちゃんと会えたの嬉しいよすっごく嬉しいよっ!!」
 両の手は強く胸の前に拳を握る。必死にそう言うとは目の前の総悟にまた下唇をきつく噛んでみせた。そーちゃんは?潤む目に言葉なくそれを問われては、総悟はさっきに同じ色、亜麻色に触れさせた手での肩を掴んだ。引き寄せる。
 ぽすと胸に埋められたは掌の握りをときそこにある総悟の着物をぎゅっと握り締めた。「嬉しいに決まってんだろ」。頭上に降ってくる優しい声には、だったらと、その手にいっそう力を籠める。だったら・・・。
 「一緒だよそーちゃん、一緒。そーちゃん嬉しかったら私も嬉しいよ。すごく嬉しいよ。決まってるよ。そんなの決まってる」
 自身の胸にくぐもる声に、総悟は悪いともすまないとも言いはしない。たださっきに引き寄せるをした腕で一年ぶりに華奢な体を抱きしめる。それをされは言う。同じく一年ぶりに感じることのできた彼の匂いをぐずりの鼻に吸い込みながら。
 「そーちゃん・・・」
 「なんでィ」
 「会いたかった、」
 「ああ、」
 「すごく会いたかった」
 「ん」
 「すごくすごく、」
 「うん、」
 「・・・会いたかったもん」
 胸に抱いた震える華奢を宥めてあやしの言葉をすべて聞いた総悟が呟くは静かにこんな言葉だ。「俺も」。それを耳にし泣き濡れたその顔は腕のなかにあがる。
 せっかく会えた。なのに泣かせてしまうなんて、いったいなにをしているのか。見たいのは、自分が見たかったのは、させたかったのはこんな顔じゃあない。そうじゃない。笑顔だ。
 「一緒でィ」
 「ほんとに?」
 「マジで。スゲー俺も、会いてかった」
 ただのこんな顔を見たかっただけ。それだけだ。








 仲直り、といっていいものかどうかわからないが、その後ふたりはふたたびに並び歩くを再開しの家にたどり着いた。待っていた彼女の母親に挨拶を済ませると、近藤から預かってきた荷物だけを置いてまたそこを後にする。次に向かうはミツバの墓だ。
 両親の眠るそこに同じくミツバの骨も眠っている。久々に訪れた墓は荒れていることもなく綺麗に掃除がされていた。どうやら定期的にないし彼女の親が訪れては手入れをしてくれているらしかった。
 柄杓に桶の水を掬い真夏の炎天下を思わせるようなこの日の陽気に焼けるほど熱くなった墓石に水をうつ。の家から貰ってきた線香を焚きその前に屈むと、しばらく石を見つめたのちに掌を合わせた。目を閉じて、総悟はミツバへと心に話しかける。

 姉上、ご無沙汰してます。元気ですかィ。そっちの世界の住み心地はどうですかィ。なにそっちじゃあもう肺の病もなく元気にしてる事とは思いやすが・・・。俺はこのとおり相変わらず元気で。元気でやってまさァ。近藤さんもアイツも、・・土方さんも。みんな元気にやってんで、どうかこっちのことは気にしねーで、ゆっくりしててくだせェ。あ、辛ェもんは控えて。

 そこまで語りかければ隣にが屈む気配を感じて総悟は目をあける。脇には今自分がしていたように同じく両手を合わせて目を瞑る顔がある。心に呟くどころか、なにかごにょごにょと口にして洩れているがはっきりとは聞き取れずだ。腰をあげる。
 そんな総悟の気配に今度はが目をあけた。して屈んだままで彼を見上げるとにこりと笑う。それを見れば「なんでィ?」とは口にせず眼に訴えてくる総悟に、彼女もまた立ち上がるとこう言う。依然としにこやかな顔で。
 「おねーちゃん喜んでるね!あとおかーさんとおとーさんも。そーちゃんのご先祖様みんなみんな喜んでるよ」
 よかったね!最後のそれを聞くや否や総悟の眸は薄く伏せ目に変わる。じっと細い眼差しに見つめられてははじめまだにこりを解かずに彼を見つめていたが、あまりにもそんな見つめるが長いのでとうとう訝る。何かおかしなことを言ったかな?とだんだんにその顔は自身の言葉を振り返りしかめっ面となるが、いくら考えても思い当たることはない。絶対にお姉ちゃんたち喜んでる。間違いない。だって大好きなそーちゃんが帰って来たのに、喜ばないわけがない。本当にそう思うから、思ったから言ったまでだ。
 「そーちゃん?」
 呼びかけてどうしたのかと理由を訊ねようとすれば既に総悟の目は自分ではない他所を向いていた。どうやらしばし振り返りに思案しているうちに疾うに眼差しは解かれていたらしい。
 行きやすぜィ。総悟はまだ怪訝とした表情のへとそう言うと先に歩き出した。「待ってよ!」と慌ててもあとを追う。行くを促がし待ってと追いかけるこの光景は駅で二人が再会してからもう何度目のことか。そして隣に並ぶのも。行き先は言葉にない。けれど二人が次にむかおうとしている場所は同じところだ。それは総悟の生まれ育った家である。

 「昨日掃除しといたの!どう?綺麗でしょ!!」
 の家があるところよりだいぶまた先を行ったところに総悟の生まれ育った家はある。姉であるミツバ亡き後もそこは墓同様に風を通したり掃除をしたりしての家で管理されていた。その為に一見し目立った傷みのある場所もなく、誰も住んでいないというのに随分と綺麗なものである。
 「お布団もちゃんと干しておいたからね」
 鍵を開け先に中へと入ったは家中の窓と戸を全開にして歩く。久方ぶりの我が家だ。あとから中に入った総悟は懐かしい家中を見回した。の言うとおり奥の一室には布団が一組用意されていた。
 手にした荷物を置くと、総悟はその場に腰を下ろした。が開けた窓や戸からは、ぬるい風がわずかに家の中に流れ込む程度で、それでも梅雨晴れの熱い陽射しより逃れて屋根の下、気休め程度ではあるがその風は心地よく感じる。だいぶ昔のいつかに吊るしたままとなっている軒に揺れる風鈴を、黙ったままで見つめる。
 すべての窓を開け終えて総悟の居る居間へと戻ってきたは暑いとごちて隣に腰を下ろした。彼の目が向いた方を同じように彼女も眺める。丁度よく吹いた強めの風に、それはちりと音を鳴らす。
 「そーちゃん」
 「んー」
 「ホントに今夜うちでなくていいの?」
 「ああ」
 今回武州へと総悟が戻るにあたり食事の世話と風呂だけはの家にお願いすることにしたが、寝泊りはここである。彼が戻るという知らせをから聞いた彼女の親は、ならばうちに泊まればいいともちろん言って出た。そのことを彼女も総悟へと電信にて伝えた。だが彼はそれを断った。遠慮などではない。ひとりになりたいといった意味でもなく、ただどうしても自身の生まれ育った家に眠りたいと思った。果たして次はいつこんなふうに戻ってこれるかもわからない。それは意地となり会いたいに戻る事をしたくないといったことではなく、その辺はもう、近藤との先だっての話にちゃんと心に解決をした総悟であるからして違う。そういった意味ではなく、刀を持っている以上いつ何時命を落とすかもしれない状態なのだ。もちろんをひとりになどさせるつもりはない。だが残念な事にそれはいくら思っても百パーセントとは約束してやれないのが事実だ。彼の考える次はいつ戻って来れるかわからないという意味は、そういうことである。
 ほんとに?と隣りにもう一度首を傾けた顔へと総悟は軒に揺れる風鈴より視線を移した。静かにひとつ頷くと、ちょっぴり残念そうなにはこう言う。
 「一晩一緒にいれば襲っちまいたくなんだろ」
 悪戯についた嘘だ。本当のことなど言わなくていい。命を落とす云々な話など今ようやく一年ぶりと会えたこのときには不要で、そんなことはわざわざ口にせずともだってわかっていることで、だからそんな話はあえてしない。
 ククと笑って総悟は掌での頭を撫ぜた。「なんて顔してんでィ」。そう言ってやろうとして口を噤む。
 「・・・しよう」
 撫ぜる手はそれを聞きぴたりと止まる。伏せがちの真っ赤な顔はあがり大きく灰青の同じ色を互いに眸へと映し、外せない視線に「・・したい」とはが黙ったままでいる総悟へと再度呟く。昼に武州へと到着の列車に乗り総悟がやって来て今は夕刻よりまだ早く明るい時間だ。何を言っているのか。とは総悟は思わない。ただ彼女の瞳をじっと見つめる。その顔に羞恥は色濃く浮かんでおり、けれどその目は真っ直ぐで、どうやら冗談でいっているようではないらしい。いや、初めから冗談だとは、思ってはいない。
 頭に触れた手とは逆。畳についた手を剥がし総悟はの頬に触れる。ぴくりと華奢な体は振れて、竦める肩にぎゅっと閉じられた目蓋には微笑む。いーですぜィ。
 「しやしょうか、」
 は硬く閉じた目蓋を持ち上げた。どくどくと五月蝿い自身の拍動を内側から大きく耳に聞きながらか細く震えた声で総悟の名を呼ぶ。そんな声出そうと思ってしているわけではなく、自然と上ずりそうなった。総悟はそれを聞きふっとは今度は吐息を洩らす。掌を触れさせた頬はそのままで、ゆっくりとの口唇へと顔をよせてゆく。そっと触れ合わせた。
 すべてがすべて一年ぶりだ。さっきまでしてきたなにもかも。そうして今、触れ合うに感じるあたたかくて柔らかいこれも、もちろんそうだ。
 よせてゆくのと同様にゆっくりと剥がれて。互いに伏せた目蓋に睫毛のぶつかる距離をそのままに、ふたたび合わせてまた離れ。何度も何度もそれを繰り返してゆくうちにとうとう触れるは深くなり、それ以上を求めて。梅雨晴れたこんな陽気に誘われて、少し気の早い蝉の声が外にしていたが、初めはそれが聞こえていたふたりでもいつの間にかそんなものまったく耳に留めることもできなくなって、一年前、あの晩に一生懸命に自分へと応えようと絡められた舌の動きは覚えていた。忘れてなどいなかったつもりだ。けれど実際触れ合うに、そうだこうだったと細かなことまで思い出し、総悟はの肩を軽く押すと、自身の下へと閉じ込めた。







 途中に場所は移動していた。が昨日に干していたとゆう布団のある部屋に彼女を抱えむかった総悟は、きちんと畳み折られたそれを足に広げると自分の手により半端に乱したの身体をその上に横たえた。それから一度立ち上がる。さっきに彼女の開けた戸を閉めて、そうして自身も上のみ素肌をさらけ出しながら乱雑に敷いた布団へと引き返す。その傍に下からの視線を見ては微笑む。跨りし、しっかりとの顔の脇にそれぞれ手をつくと、覆いかぶさった。
 確かめてしてすべての箇所を。自身のみが触れていいその体になにの変化もないのかと余すことなく愛い撫ぜて、そこにまた見出して。"変わらない。"の、喜びが欲しい。
 ひとつ、またひとつと口唇で啄ばむ肌にあがる声は切れて掠れ、掻き混ぜる指を抜き、代わりにそこへと埋める腰。刹那、きつく閉じた目蓋を見ては自身も中を貫くことに眉を顰めてこう告げる。あの晩しかり。「目ェ、開けなせェ」。すればゆっくりと開いてゆく目蓋だ。
 の眸に映る自分は自分ではないようだ。なんて顔をしているんだろう。自分にもこんな顔ができるものなのか。いや、の前だからできるのだ。自然とできてしまうのだ。
 「怖かねーかィ?」
 「・・うん」
 怖くない。隙間なくしっかりと埋めたのち、そんなふうな総悟の訊ねるには笑み顔で応えた。汗に濡れ額にはりついた自身の髪を、それを聞き総悟は掌でかきあげる。ふっと微笑んでみせるのは一瞬だ。すぐにその顔は真摯なものとなり、始めこそゆるりと音も立てずな律動は、段々と耳に大きく淫靡を聞かせ、それに混じるの、もっと、なあまだるい声に激しさを増してゆく。
 壊したいほど愛しくて堪らない。止まらない想いにエスカレートする行動に、けれどから嫌の声はあがらない。触れるも含むもする前に硬く勃っていた膨らみの先端は今はさらに大きく突起して、暑いと熱いに濡れた裸体より上体を起した総悟は、埋めた腰はそのままに一時休戦と片の手に柔らかいを揉みしだきながら彼女の顔を下に見る。
 「っぁ・・ちゃ・・そー・・ちゃ・・」
 わずかな振れにさえどこまでも敏感に快楽を感じ取りあがる途切れる声に、呼ばれれば総悟もまたそれだけでックと眉を顰めた。自分しか知らないその中は一年ぶりの交わるに薄い膜をふたたび張ったかのように不慣れでキツい。もちろんそれで結構だ。慣れていたのでは困る。いや、困るどころか腹が立つ。が自分以外の者と交わるをするなどあっては欲しくないことで、否、あってはならない。そんなことは許さない。
 きつい締めつけに耐えながらゆるく腰を打ちつけるを再開。ちょっとでも頭に浮かべてしまった自分以外に抱かれてはこんなふうにして啼く彼女の想像を振り払う。そんな顔誰の前でも見せたらいけねェ。俺だけに、俺だけにしときなせェ。絶対に。
 いくらでも引き延ばしたいこの時間。いくらでも、いくらでもだ。だくだくと汗は大粒となり額を滑りよがるの目蓋におちる。瞬時にきゅっとつむられたそれに、総悟はひとつ口づけた。
 「そーちゃっ・・」
 「・・っんでィ」
 外からの光を遮断してここのみ薄暗く、ただでさえ蒸し暑いにあげた二人分の熱をも合わさって室内はひどく高温だ。が、不快じゃあない。
 「ちゃっ・・き・・そー・・ん・っあ・す、すき」
 "だいすき。"
 伸びてきた細い腕。両の手に首にすがられた総悟はされるがままその誘いに従いそばに寄せられた強請るように半開きの乾いた口唇に自身のそれを重ねる。律動に合わせ交わる角度は左右と変えて、深く絡めて。俺も、俺もでさァ。とは心の中で返事をし、極点。のぼりつめて最な頂に、して二人は一年ぶりの繋がるに、悦喜同時に果てるのだった。







 目隠しにと閉めた戸の隙間より差し込む陽に細く照らされた室内は薄暗い。一眠り。むこうの部屋より吹き込む風に目を覚まし、総悟は腕に抱くを見ると、その寝顔に頬をゆるめた。片の手の指先にそこを突いてみる。すればごもごもと何か文句のようなものが聞こえるが、さっきに訪れた墓前同様に何と言っているのかまでは聞き取れずだ。
 やわらかい頬を突いたままの指先を離す。より顔の向きを変えると総悟は天井を眺めた。腕に心地よい重みを感じたまま、しばらくそのまま時を過ごす。
 「そーちゃ、」
 小さな身動ぎに横目をむければ、まだぼうっとした眸に呼ばれる。ごろりと身体を横向けて、その顔にはやっと起きたのかと言ってやる。それにはは欠伸を洩らし、うんと頷いた。
 コチコチとは時計の音だ。薇型のそれは止まってしまわぬようにとあるいは彼女の親がここを訪れた際に螺子を巻いてくれているのだろう。しっかりと動いている。総悟はそれを見遣り言う。時刻は間もなく十七時を回る頃。もう夕方だ。
 「そろそろ行かねーと」
 「・・だねぇ、夕飯作るの手伝わなくちゃ」
 初めて身体を重ねた晩もそうだったが、には総悟へとありのままの姿を見せることにあまり抵抗はない。それは総悟も同じ事だ。いや、男とは案外その辺をあまり気にしないものか。
 二人とも幼き頃から一緒に居る為に、見る見せられることに慣れているせいもたしかにあるのだろう。が、大きく理由はこうが正しい。どちらも同じ。自分のすべてを知って欲しい。知っていて、欲しいから。だからこそ、隠したくなんてない。
 腕に心地いい重みは消える。起き上がったを仰向けに眺めながら「晩飯?」と総悟はぽつりとごちる。それにはそばに散らばった着物を手繰り寄せながらが顔を振り向ける。なに?
 「いや、胃薬持って来てねーや」
 「失礼な、いつだってお嫁にいけるぐらい上手いよ」
 この辺は大人になったのか、総悟の意地悪い呟きには声を荒げるでもない。少しばかし拗ねたようにして返すだけだ。
 へェ。羽織った着物の袖に腕を通す彼女を見て総悟はそう呟いた。そうして自身も起き上がる。それに気づけば同じくそばにあった彼の着物を取り「はい」と手渡すである。
 そのあとは、どちらも無言で着替えるを。髪を手櫛に結いなおした彼女は「そーちゃんどけて」といつまでも布団の上に座ったままの総悟を促がす。言われてはまだるい身体を渋々にあげる総悟である。
 ふわりと部屋の空気が動く。乱した布団を敷きなおし、帰ってきたらすぐに眠れるようにとは彼女の気遣いだ。それからいっとき戸を開けて換気。交わることで籠もった汗の匂いも何もかも、外の方へと消えてゆく。
 「涼しい」
 まだ陽の高いうちにはぬるいとしか感じなかったそれは今はもうの言うように涼風と変わっており、総悟もまたそんな呟きを聞けばゆっくりとそのそばへと向かい空を眺めた。隣りより視線を感じては、そのほうをちらと横目見る。
 「どうかしたんかィ」
 「ううんっ、どーもしない」
 「だったらなんでィその顔は」
 「その顔はって、なんで?笑ってちゃいけないの?」
 「いや、そうじゃねーが」
 にこにこと笑み顔は「だったらいーでしょ」と仰ぐをやめてふたたび前を向いた。吹く風にさっきまで噴きだす汗に濡れていた髪はそよそよと揺れ、「気持ちいい」とは目を閉じる。
 それを見て同じく亜麻色を風に遊ばせた総悟もまた何年ぶりと見る澄んだ武州夕刻の空を仰ぐ。「そーちゃん、」。呼ばれてはそこを見たままで応える。
 「なんでィ」
 「そーちゃん」
 「なんでさァ」
 「そぉーちゃんっ」
 「だからなんだってん、」
 三度目の呼びかけにとうとう空より顔を脇へと向ければ、伸びた手にぐいと両の頬を挟まれて屈まる背。ちゅっとの啄ばむに目を瞠る。大好き。至極真傍にてさっきに見たものよりも満面の笑みで言われては、思わず火照る頬だ。
 「だぁぁぁい好きっ」
 ぎゅっと抱きつかれ、それによりあんまりだろう自分の熱に赤い顔を見られないことに、総悟は擽ったいぬくもりを腕に閉じ込めては、ほっとするのだった。








 「ー。これ運んで」
 「はーい」
 「ああ、総悟君。総悟君は邪魔だから先にお風呂入っちゃいなさい」
 「はあ、けど」
 「なに?何気にしてるの?お父さん?お父さん大丈夫あとから入る人だから気にしないでホラ邪魔じゃまっ」
 「・・はあ。んじゃ、そうし」
 「はい行ってらっしゃい!場所わかるよね?」
 「わかりやす」
 も変わらないけれど、彼女の母も変わりない。幼い頃から知るままの態度には嬉しいような、その勢いに呆気に取られたような、微妙な思いにかられながら総悟はそこに背中を向けた。「ゆっくりね」。後ろにのそんな声を聞けば顔のみを振り向ける。前掛け姿に手を振られては、さっきに彼女の言ったお嫁云々を思い出し、どこか気恥ずかしさを覚えた。ああ、とも頷く事もせず顔を元へと向ければ台所の暖簾を潜る。
 着替えを持ち風呂場へと向かい脱衣所にて着物を脱げば、ふと目に留める胸の濃い赤に先刻の情事を思い出してはふっと微笑む。纏うは自身のみの匂いだけにあらず、のそれをも感じてはどこか流してしまうのが勿体ないような気持ちに襲われた。が、そんなことを考えていれば向こうよりがしゃんと盛大な音がして「なにやってるのっ!」と彼女の母親の声が続く。皿でも割ったのだろう。余韻に浸るもなにもない。苦笑を洩らして浴室へと入れば、体を洗いお湯で流して首までとぷんと浸かる湯船だ。
 風呂をあがり居間へと戻ればそこには仕事を終えて帰宅したの父親が居た。そそっかしくておっちょこちょい。のそんな性格は彼女の両親どちらかといえばこの父親似といってよかった。
 「おお、総悟君。久しぶり」
 「お久しぶりです。ご無沙汰してやす。すいやせん先に風呂、」
 「ああ、そんなのは気にすることじゃない。で、元気にしてたか?って聞くまでもねーな。勲君は?皆も元気かい?」
 「はい、お蔭さんで」
 そうかそいつはよかったと父親は笑い総悟もまた笑う。だが、それ以上の会話が続かない。あっという間に居間はしんとした状態だ。父親は暫し夕刊に目を通しながらもちらちらと総悟を気にして、その視線を感じては何か話すべきなのかと彼も考える。どうにも気まずい。まったく江戸では見ることの出来ない沖田総悟がここに居る。なに、こうしてだけならず家は彼のペースを完全に崩すにとんで長けた、昔からそういう一家である。
 「テレビでも観るか」
 無理矢理にでも二、三世間話をかわしたがどうにも間が持たず。の父親はとうとう堪らずそれを切り出し、なんとか居間に静けさは消える。それからまた暫くし、明るい二つの声がそこに加わる。盆の上持ってきた料理はあっという間に卓の上をいっぱいにし、最後にが持ってきたのはまだ早いでしょうと母親に呆れられながらも「いーじゃない」と白のクリームで飾られたケーキだ。と総悟、二人の誕生日。中央のプレートには二人分の名前が甘い文字で書かれている。
 「そーちゃんよく見て!コレ、誰が作ったと思うっ!?」
 輝かしい目でそう言われては答えは見えみえだ。普段ならば意地悪く対応する総悟だが、今ここに二人きりではない。彼女の親も一緒だ。仕方なし、「」とは素直に言う。「当たりっ!」。ぱあと満面。明るい笑みは大きく頷いて、それには今に仕方なしと思ったことなど、どうでも良くなる総悟だ。が、しかしその笑み顔を見つめる視界の端に、なぜか同じようににっこりと満面の彼女の父親を見ては、思わずほころびかけた口許が引き攣りそうになる。似過ぎだろィ。
 「プレゼント!コレ私からそーちゃんに誕生日プレゼントだよ!!」
 そんな総悟を他所には嬉々とした声でそう言って、総悟は視界に彼女の父を映さないようにしながら「へえ」とごちる。美味そうでィ。次にそう続けようとして、だが開いた口はすぐに閉じる。
 「おおっ!ホントに美味そうだな!!」
 先にそれを言うか。とは心にのみ彼女の父へとむけ愚痴る総悟である。そんなやり取りに終止を打つ声は次に掛かる。「ケーキはあとで!」。もちろん彼女の母親の声だ。皆がそれにはそそくさとテーブルにつくことで従う。
 賑やかな晩の食卓だ。もし自分が江戸ではなく今もここに居る身なら、これが当たり前に日常にあるのかもしれない。そんなことを思いながら、総悟は用意されたご馳走に箸をつけた。
 「もう食べれない・・・」
 それは当然だろう。酒が入りさっきに比べ饒舌になったの父の話に適当に相槌を打っていた総悟は、脇にごろんと仰向けになったを見て苦笑した。せっかく作ったとゆうケーキは皿の上にまだ半分も食べられてはおらず残っている。「欲張りすぎなんです」。母親のもう何度目になるかの窘めには「だって、」と口を尖らせる。総悟はフォークに彼女の作ったとゆう甘さの控えめなクリームの塗られたスポンジを刺し口へと運ぶ。一口ひとくち、ようく味わってから飲み下す。
 「食ってすぐ寝りゃあ牛になんぞ」
 「なんないよっ!」
 「そうだならないぞ総悟っ!!」
 「ねー!だよね父さんっ!!」
 たじたじだ。さっきまでにあった"君。"すらも抜け、既に名前は呼び捨てだ。別にそれはかまわない。が、に何か言うたびにその父親の一言は鋭く、総悟はそれにはほとほと参る。すいやせん。そんなふうにごちれば助け舟が入る。
 「何言ってんの!総悟君の言うとおりよ、ほらアレやるんじゃないの?結局なかったの?」
 「あっ!そうだ!!」
 もう食べれないと動くのも億劫そうにしていたは母親の言葉に勢いよく起き上がる。自分へと振り向くわけでもなくダダダっと足音高々に居間を出てゆくその姿を総悟は呆然とし見つめた。普通なにか一言あってもよくないだろうか。その傍らにはまた彼女の母親が落ち着きないと窘めをごちる。続けて総悟へは湯呑に御茶を淹れながら言う。
 「まったく相変わらずでしょう?アレで二十歳だって信じられないわ。総悟君ホントにあんな娘でいいの?何かにつけて苦労するわよ」
 なんと言って返していいものか。隣にはくだを巻いた父親をおき、そんなことを聞くか?さすがの母である。
 酒に酔い鼻のあたりからすっかりと赤くなった顔を横目にし、総悟はただ苦笑した。そうとしかできない。開いた皿を重ね避け、盆へと乗せたあと湯呑を差し出して、の母はそれを口へと傾ける総悟の顔をじっと見つめた。対面よりあからさまにそれをされてはこくと一口飲み下し、湯呑を口につけたまま訝る総悟である。
 どうかしたかとは顔にでも表れたのだろう、母親はふうと息を吐くとそんな彼より目を逸らしふたたび卓の上を片し始めた。
 ダダダっとはさっきに聞いたままの勢いで漸くが戻ってくる。背中に何かを隠しているようだが、それは然程大きなものではないらしく後ろにでもすっかりまわり込むをしなければ簡単に見破ることはできそうにない。「あったの?」。母親が訊ねればはにこりと微笑んだ。総悟はまたお茶をすすってその様子を見ていたが、ちょいちょいの手招きに呼ばれると湯呑を置く。立ち上がり彼女へと近づいてゆく。さっきから絶えずのにこにこの笑みを見下ろして、もまた、どうかしたのかとでも言いたげな総悟の顔を仰いだ。
 「これしようっ!」
 後ろに回した両手は前に。そう言ってが総悟へと見せてむけたのは花火セットだ。袋は然程大きくはないがいろいろな種類の入ったそれを手にやはりにこやかな笑みをむけられて、総悟は彼女らしいなと心に思う。
 幼い頃から武州を出るまでは夏になればよく近藤家に集まりその庭で皆でしていた。ここ数年江戸に出てからとゆうものそれは警邏に見る大江戸花火大会の夜空に咲く大輪の花ぐらいのもので、質素なそれは男所帯、案外好きそうに見えてなかなかに誰もしようとは提案しないものだ。
 「やろう!」
 「やりやすかィ」
 その声はまたしても同調。「やった!じゃあ庭行こうっ!」。片手に花火、もう片に総悟の腕を引きは歩き出す。二人のそんな姿に後ろでも赤い顔をしたもう一人も立ち上がる。「とーさんもやるぞ!」。よろけた足取りの父をは振り返り見て「大丈夫?」と訊ねた。が、その顔は笑っている。
 先に廊下から三人で庭に出る。花火の袋を開封し、中にある小さなロウソクに火を着けたのは総悟だ。庭石に斜めにし溶けた蝋をふたつほど垂らす。そこにそれを立てる。
 蛙の声がどこかでしていた。とっぷりと日も暮れて数時間。闇の中、控えめな炎は揺れる。
 「線香花火は一番最後ね。うんと、最初はー・・・コレかな」
 傍に屈んで中身を物色していたはその中から一本取り出してさっきに総悟の立てたロウソクへと先の紙縒りを近づける。ぼっと炎はそれをされいくらか大きくなる。ちりちりと火薬の詰まった先を焼き、シューっという音と共にあたりが一気に白くあかるく照らされる。
 独特の匂いが鼻をつく。眩しいそれには総悟は眸を細めた。は立ち上がり手にしたそれで闇にぐるんぐるんと円を描く。瞬く目蓋に残像を見ながら総悟もそこにある袋より一本花火を取り出すと先の紙縒りに火を翳す。シューっという音に辺りの明るさは増す。
 「そーちゃん!」
 呼ばれてはその方を見る、は今はしない。が何をしようとしているかなんて総悟はお見通しだ。それをされるよりも先に振り返りざま火の華が散る先を彼女の足元へと向けた。草履に素足はそれをされ慌ててその場に跳ねる。なにすんの!と膨れっ面を見る。
 やったやられたのこんな夏のやり取りは、幼い日からの思い出に二人に深くあるものだ。否、二人だけではないか。の父もまたしかり。縁側で赤い顔に頬をゆるめては、あんなに小さかった二人がいつの間にかこんなに大きくなっていることに、なのにすることは変わらずなことに、可愛くて仕方ないとはすっかりと端を下げた目に眺めながら思う。片づけを終えそこへとあとからやって来たの母もまた、そんな二人に微笑をもらす。
 「おっきくなったわね」
 「だなァ」
 この二人からすれば、我が子はのみならずだ。総悟も疾うに昔よりそれ同様の想いで見てきたのだ。可愛くて仕方ない。そんな二人が今はただの幼馴染を越えた関係であることも、もちろん両親は昨年にが江戸より帰って来たその顔に何を聞かされずとも理解できていた。
 さてと。そう言っての父は縁側より立ち上がる。それを母親は見上げる。どうしたの?とは声にせず眸で訊ねた。
 「なに、まだ総悟君にはやらない。アレはまだ俺のもんだ。邪魔してくる」
 邪魔だなどと言いつつもその顔は依然とし微笑みにゆるく、母親はくすりと肩を揺らす。「いってらっしゃい」。白の煙にまかれた二人の元へ、よろけた足取りで向かう亭主の姿ごと一緒に微笑ましく眺めた。
 あがる声にもう一人加われば賑やかさは増す。とその父の戯れは激しい。まったくの親子だ。総悟は二人の足元に袋にあった置き型の花火をすべて並べるとさっきに立てたロウソクの根元を一旦折りそれに順に火を着けた。そうして自分は逃げる。手持ち花火の追いかけっこに夢中になっている二人はそれをされたことにまだ気づいてはおらず、しめしめ見物だとは心の中だけに思いの母が居る縁側の傍に待機した。
 「総悟君、」
 キャーとワーの悲鳴があがると同時に呼ばれた総悟は顔を振り向ける。そこにはさっきの食卓時と同じ、自身をじっと見つめてくるの母の目がある。
 「なんですかィ?」
 総悟は先程には問う事のできなかったそれをして、縁側に腰をつく。母親はうんと一つ頷いて、地より上がる火柱に騒いでいる二人を眺めた。総悟も同様にその方を見遣る。ククと心に笑う。母親は静かに口を開いた。
 「赤ちゃんは、まだ早いわよ」
 思わぬ一言を耳にして総悟の肩はぴくりと振れる。何を問われているのかはわかる。が、なかなかに振り向けない。「わかる?」。黙ったままでいれば再度そう訊ねられ、総悟は「はあ」と頷いた。
 「そう、それならいいんだけど」
 まさかそんなことまで報告しているのか?と僅かにを訝ればそれをどうして覚ったか母親は「違うわよ」と続ける。
 「わかるから、そういうの。あの娘が江戸から帰って来たときもすぐわかった。親の感?なんかあるからね、そういうの。お父さんもわかってる」
 一年前はさて置きだ。だが、だとすれば。さっきのさっきな情事に対しては、どうも複雑だ。
 マジでか・・・。総悟は心に盛大なため息をついた。が、中にのみがくりと落とした筈の肩が残念なことに表でも同時におちてしまう。傍らにクスクスと笑い声があがる。
 「いいのよ別に、そんな気にしなくても。あなた達がいつかそんなふうになるのなんてわかってた。お父さんも私もね。だからいいの」
 いいのと言われても、やはり複雑だ。そういう目でさっきまで見られていたのかと思えば、なんとなくでもやはり振り返れない総悟である。
 はしゃぐは火柱に。始めは二人ともこちらを指差して何やら愚痴ていたようだが、総悟の耳にはもう彼女の母親の声しか聞こえておらず、してまだしぶとくそれは続く。昔から知っているとはいえ惚れた女の親を前にしてされる話もこうとあれば、いつもの総悟はやはりなく完全にお手上げだ。
 「でもね、総悟君」
 ふたたびそう呼ばれても、やはり総悟はなにも返せずに、彼女の母の続きを待つ。
 「ちょっと複雑なのよ・・・」
 消えかかる語尾に総悟はそこでやっとで彼女の母を向く。伏せがちな目蓋に、けれどその口許はほころんでいて、たしかに言うとおり、その様は複雑を露だ。
 「まだまだだと、思ってた。いつかなんてね、思ってたくせしてね。お父さんも、私も。まだまだあなた達子供だなって思ってて。それは今も変わらなくてね、・・・複雑なのよ」
 そこまで言うと母親はふたたび伏せた目蓋をあげて先にあるたちを見つめる。それにつられて総悟もその方を見る。まだ話に続きがあるのはわかるから、何も言わずにそうした。何本もの火柱が止み、大きくはしゃぐ声があがる。こちらへと向け振られる手には、母親は同じくそれをして応え、総悟は微笑むことで応えた。二人がまた手持ち花火の先に火を着けはじめたのを見て、母親は話を続ける。
 「私達にとって、我が子はだけじゃあないのよ。あなたもよ、総悟君。あなたもで・・・」
 総悟はやはり黙ったままでいた。その目には時季少し早くして手にした花火に声をあげはしゃぐ愉快な親子を映し黙ったままでいた。否、喋れない。嬉しくて、ただ、胸がつまっていっぱいで、なにも返せない。
 血の繋がった身内はこの世にもう居ない。けれどそれ以上、血の繋がり云々は別にそれ以上だ。江戸に居る近藤や土方、そうして隊の仲間と、自分には居る。ちゃんと居る。ここ故郷武州にも、ちゃんとこうして家族と呼べる者がいる。それは総悟だけの独りよがりではなく相手もきちんとそう思ってくれていて、今にじゃあない。もうずっと、きっと昔から。
 「総悟君、」
 呼ばれて今度は総悟はその方へ顔をむけた。によく似たやさしい笑みがそこにはあって、彼は思う。自分とが似ているのなら、今目の前に居るその親のの母と顔すら覚えていない自身の母もまた似ているのではないのだろうかと。そうしてむこうではしゃぐその父も、きっと似ているのではないのかと。
 「本気です」
 呼ぶをしてそれ以上なにも言わないの母に胸中複雑の意味を問う事はしない。それはそう簡単に言葉にできるものではないだろう親心。だけじゃあない、自分までを含めて想う、親心だ。だから総悟は彼女の言葉を遮って、静かに続ける。真っ直ぐにその目を見つめて。ゆっくりと誓う、約束。
 「嘘なんてねーです。昔っから。・・・俺はが大事で、だから・・・だから。今はまだこんなで、まだまだ頼りのねーガキで。けど、それでもこの先に嘘もねーんです。一緒に居てェんです。そばに居てーんです・・」
 その呟きはぽつりぽつりと話の流れも辻褄も合っているのか合ってないのかもわからないもので、総悟自身もなにを言っているのかと本気で思っているほどで。だがの母は黙ってそれを声にせず頷きながら聞く。どんな立派な言葉より、総悟の今話すそれは、彼女の胸に嬉しいもので、そっととは指の背に拭う涙だ。
 むこうでは自分たちとは対照的に相変わらずにはしゃぐ声がしている。二人はまたそれを見て微笑む。そうして総悟は続ける。
 「もっと、つけやす。アイツを、をまもる。幸せにしてやれる自信をつけやす。そんで、そんで改めてまたここに戻って来るんで、」
 そん時は・・・。そこまで言うと総悟はふたたびの母を向き、大きな眸に真っ直ぐとその顔を映す。すーっとは静かに鼻より息を吸い込んで、耳には楽しそうなの声を聞きながら一旦閉じた口をあく。そん時は・・・。
 「そん時はを、お嬢さんを、」
 "俺にくだせェ。"
 後ろに花火の白はあかるく、言い切れば真っ直ぐな眼差しは伏せられる。下げた頭の亜麻色はさらりと垂れ目の前の旋毛には母親はさっきまでじわりの涙を目縁より一つ頬に滑らせてふっと笑む。「総悟君、」。そう嬉しそうに呟くと、あがる頭にはあと大きく息を吐き両の肩より力を下ろす。にこりと大きく頬をゆるめては、目の前の総悟へと悪戯に言う。
 「お父さんには、それはまだ内緒ね」
 聞けば総悟の緊張の面持ちは崩れ、やっとでその口許がほころぶ。二人はまだむこうでするはしゃぐ声に目をやって、最後だと線香花火を握り締めた手にこっち!と大きく呼ばれれば、縁側より同時に腰をあげ、その方へ近づいてゆくのだった。








 「さっきなに話してたの?」
 「なにが?」
 「なにって、母さんと話してたでしょ。二人で」
 なにも。総悟はそうとだけ返し前を向いた。指先に摘む細い紙の先、橙は大きな塊となり一寸しんとして、次にぱちぱちと音を立て屈む足元に小さな花を咲かせる。隣りでも同じようにもうひとつ花が咲く。
 「そう?」
 は然して訝るふうもなくそうごちるとその花をじっと見つめた。ぱちぱちと不規則に鳴る音と蛙の声のみに暫し辺りは包まれる。「あ、」の呟きに自身の手元より隣りを見た総悟は苦笑した。「下手くそ」。言えばはムッと頬をふくらます。その肩に体当たりでもして総悟のそれも落としてしまいたいところだが、これが最後の一本だと思えばそんな気持ちはぐっと堪えた。
 水の入った傍らのバケツに消えた花火を落とす。総悟の手元に目を戻す。綺麗だ。ぶれない手元に彼のそれは安定し小さい、けれど大きな火の花を咲かせ続けている。
 「そーちゃん」
 散る花で橙色に薄く染められたの顔は総悟へと向くわけでもない。ただ彼を呼び、大きな眸は相変わらずその手元を見つめたままだ。「おめでとう」の言葉はぱちぱちという音がすっかりと耳に聞けなくなってから呟かれる。
 呼ばれて一度その方を向いたもののこちらを見るでもないの様子に手元へと戻していた総悟の視線は、次はちゃんとの気配を覚り再度そちらへとむけられる。彼もまた、おめでとうと呟いた。
 すっかり酔ってしまった父を奥の部屋へと介抱しその母が戻ってくれば総悟はそろそろと腰をあげた。もそれに倣い立ち上がる。「送ってく」。言えば母へとそれを伝えに踵をかえす。だが総悟はそんな彼女を引きとめた。踏み出しかけた足を止めは振り返る。「なんで?」。なんでじゃあない。いいとは首を横に振る。
 「俺を送ってお前はどうすんでィ。帰ェーりは一人じゃねェか」
 「大丈夫だよ」
 「大丈夫じゃねェ」
 「慣れてるよ、ずっとここに住んでるし危ないとかないよ」
 「それでも、」
 言いかけてして口を噤む。拗ねた声、なのにまだ居たい、一緒に居たいの想いがひしひしと伝わってくる眸にはもちろん総悟だってそれは同じなのだ、負けてしまいそうになる。が、彼は首を振る。縦にではない、当然の如く横にだ。それを見て、はヤだと息巻く事はせずがっくりと肩をおとした。そういう問題じゃない。そんなふうに総悟の言いたいことがわからない彼女ではないのだ。ぽんと頭に乗る掌に首を竦める。上目に見る総悟の眼差しに言葉ない解っての説得を受けては、仕方なしにこくと頷く。
 持ってきた荷物を一旦居間に戻り取ると総悟はの家をあとにした。「そーちゃーん!」。そんな声に振り返れば、気をつけて、おやすみと大きく手を振るのを見てまた前を向く。歩き出す。
 の総悟を見送る姿は、彼がすっかりと闇の中に溶け見えてなくなるまで家の前に存り続けた。







 生家へと戻った総悟は袴を取り長着ひとつになると縁側に腰をおろした。晴れの夜空に細い月はけれど煌々と浮かんでおり、わざわざ灯りを点けるまでもない。これだけで十分だ。
 の家の庭に聞いたもの同様に蛙の鳴き声がどこからかしていて、あとは特にない。静かだ。夕方に涼しいと感じた風は、今は少し肌寒いほどで、それには総悟は目蓋を閉じる。
 に会えた、姉であるミツバの墓前を参ることもやっとでできた。血の繋がりはなくとも家族と呼べる者がいることを知り、今ここにひとりで居る事は、そんなに寂しいとは思えずだ。来てよかった。そんなことをしみじみと心に思う。
 ひとりではけして来れなかった。来たいと思ってもそれをすることをしなかったろう。いや、しなかった。それもこれも近藤はじめ江戸の仲間のお蔭。何をはっきりとされたわけではないが、あそこに居る者も皆、総悟には大切な存在で、誰一人欠けて欲しくない、そんなことは随分と前に起きた反乱だけで勘弁だ。同じことで笑い怒りした仲間を手にかけるなんてもう二度としたくない。あの時は組の頭である、いやそれだけの理由ではないが、大切な近藤を護る為にああするしかなかったのだとわかっている。だが、それでももう二度としたくない。懲りたとは違う、哀しすぎる。
 『にな!俺は元気だからって、心配要らねーからって!!ちゃんと伝えてくれよ・・・っておい聞いてる総悟そぉぉごぉぉっ!!??』
 『近藤さん、アンタしつけーよ。さっきからそればっか何回言ってんだ?』
 『うるさいもうトシっ!何回でも言いたいの俺だってに会いてーもんだってよだってな』
 『わーったわーった。あとは黙っとけ。行け、総悟。てか俺からも一言よろしく・・っておまっ!ちょっといつの間に!?なんでもうそんなとこまで行ってんのォォォっ!?』
 出掛けに見た、ではないか。いつまで経ってもこれではと後ろに聞いた声を思い出した総悟は、見ておらずとも二人のその顔を今に容易く想像できてククと笑う。戻ったら素直に礼を言うまではできずとも近藤にはもちろん、土方にも他の皆にも多少は悪戯を自重して優しくしてやろうか・・・とは思うが。それはまあ、できればの話だ。
 そういえば、近藤より預かったあの荷物の中身はいったいなんだったのだろうか。誕生日プレゼントには間違いないだろうが、気になる。明日の朝にでもに聞いてみるか。
 総悟は暫くそんなことを考えてぼうっとし、月とその周りを飾る沢山の星を見て過ごす。江戸での市中警邏では町の灯りが強くこんなふうに見えたものじゃあない。屯所の庭からもいくらか見えたりもするが、ここまで見事じゃあない。
 小一時間も経った頃、そろそろ寝るかと腰をあげる。部屋の中へと引き返そうとして、けれどタタタという音にちりと微かな鈴の音が混じり聞こえたような気がして、総悟はそれをやめた。ゆっくりと振り返る。気のせいじゃあない。案の定、月明かりに照らされた薄闇の庭には人影があり、それが誰であるかを認めるとふうと呆れた息をつく。が、それとは裏腹に、総悟の顔はどこか嬉しそうに頬が僅かにゆるんだものだ。
 「なにやってんでィ」
 その場に体勢ごと向き直る。ずっと駆けて来たのだろうあがる息。肩揺れるへと声をかける。「来ちゃった」。はそう言うと大きく笑いながら縁側に居る総悟へと近づいてゆく。前まで来ればその高さにさっきまでよりも上にある彼の顔を仰いだ。
 「そーちゃんっ」
 「ちゃんと言ってきたのか」
 「ううん、内緒」
 「なんでィそらァ。怒られても知らねーぜ」
 「やっぱ怒られるかな?」
 今さらだ。後先を考えずして行動をするの性格は総悟は昔から知ってのことで、言われたそれに不安げに眉を下げた顔がすぐ、けろっとしたものに変わることも知っている。
 さあとでもいったふうに首を傾げてみせる総悟の思うまま、予想は外れない。彼女は前向きで、一旦落とした肩はすぐに上がる。
 「でもねほら、今日で私もう二十歳だし。大人だし、怒られたりしない、ってゆうか怒られたくない」
 たしかに。とは思うがそれは言わない。先程聞いた彼女の母の言葉を思い出しながら、総悟はこう言ってやる。
 「二十歳にしちゃあ随分と落ち着きがねェが」
 一瞬で膨れる頬はぷっくりと。「・・・そーちゃーぁぁぁんっ」。恨めしげに呼ばれては総悟はぷっと噴きだした。とんとんと両手に作った拳に腹を打たれては「なにすんでィ」とごちる。悔しいがいっぱいに滲む上目の「帰るっ」には、くるりと背中をむいたその肩を瞬時に掴み歩む事の制止。
 「なに?離して帰るっ」
 「危ねーだろィ」
 「危なくない!子供じゃないっ!バイバイそーちゃんまたあし、っわああっ!?」
 総悟との体躯の差は見た目には身長以外たいして測れずだ。が、着痩せてみせてその中は当然のこと違う。武州を発ちこの数年に総悟は随分と逞しく肩もしてがちりとなっており、脱いだらすごいんですなんていうキャッチコピーがしっくりとするような、しっかりとした男である。
 そんな総悟がわずかな縁側の高さに背を屈めひとりを抱えあげるなど容易なことだ。敵うはずもなく、肩よりすっと脇へと伸びた手に否が応でも体の向きを変えられたは草履の足のまま縁側へと乗せられる。帰さねェ。そばにそんな呟きを聞けば嬉しいのに膨れる頬だ。総悟は言う。「来ちまったもんは仕方ねェ」と。本当は彼もまた、彼女がこうして会いにきてくれたのがうれしいから。
 「付き合ってやってもかまいやせんぜ」
 「なにを?」
 「なにをって、説教に。どーしてもってなら、まあ。付き合ってやんねェこともねーが」
 ホント!?はそれを聞きようやく嬉しいを素直に面いっぱいとして頷いた。抱きついて、総悟の背にはぎゅっと腕をまわす。縁側上に彼女の背中よりその足元を見た総悟は、そこにさっきまで見ない真新しいに気づくと、胸に埋まる頭の上に「そいつは?」と問うた。
 顔をあげたは何を言われているのかを彼の視線が伏せられていることに知り自身の足を見る。片を上げればちりとさっきに総悟が聞いた気のした鈴音があがる。
 裏を眺めたのち「夜におろしちゃいけないんだけど、」と先につけて続く彼女の言葉にはなるほどなと総悟は思う。
 「勲兄からのプレゼント」
 鼻緒に小さな鈴のついた草履は、昔に憶えがある。大きさこそ違えど懐かしさが湧くものだ。幼い頃にが履いていたそれとよく似ている。どこで見つけたのか、それともわざわざ作らせたのか。あの包みに四角い箱の中身の正体がやっとでわかれば、総悟のあの日から胸にあるもやもやは漸くここで消える。
 「そーちゃん、行きたい場所があるの」
 「今からか?」
 「うん、」
 「明日じゃあダメなんかい」
 「うん、ダメなの」
 せっかくもやの消えた胸にまたすぐもやりはそうして湧いて、腕の中、見上げてくる目に絶対に今でなければならないと続けられては総悟はわかったとその頭を掌にうち玄関へと回る。庭の方を外からぐるりと回ってきたと合流し、さっきはひとりで歩いてきた夜の道を今度は二人で並び行く。今ならば、誰も見ていない。こつとぶつかる脇の手を総悟はぎゅっと握りしめた。それをされ、は彼の顔を仰いだ。「何年ぶりだろ」。そう言うと握られた手を自分からもしっかりと握り返し、"繋がれた"ではない。どちらか一方ではなく、ふたりでしたいから、だからこうして"繋いだ"手とする。
 そんなことどうでもいい、ちょっとのこととお思いだろう。だが、誰も見ていないがもし万が一誰かに見られてしまったときに、総悟の照れるが行き場なくならないようにと、これは幼いその日からが自然と彼の為に身につけたやさしさである。「俺じゃねー」「がどーしてもって言うから」「が泣くから」。そんなふうに素直じゃない、意地っ張りな総悟の言い訳を嘘じゃないものにしてあげたくて。本当のことはいつだって自分には伝わっているから。知っているから。そーちゃんは、やさしいから。
 だが残念、はひとつ今の総悟に誤っている。それはもう彼が、こうしているところを誰かに見られても照れるをそうして隠す事はせず、ぱっともその手を離す気はさらさらないのだという考えをもっていることだ。なに、彼女にとってそれはただ、嬉しい誤りでしかないのだが。

 特別に行き先を訊ねずともがどこへ自分を連れて行きたいのかは、総悟には家を出てすぐにその足の向いた方向でわかっていた。それはあの川縁で、二人の秘密の場所だ。春にはそこで花を摘み、夏にはそこで遅くまで肩を並べて蛍を見て、秋には虫を獲り彼女を怖がらせ、冬にはその土手でそりをして。いっぱい思い出の詰まった、そんな場所だ。
 じゃりと二人の草履音は夜道に響き、そこへ着けば土手上に足を止める。懐かしい。そこも何一つ変わってはいない。あの頃のままだ。
 「あー、やっぱまだ早かったね。昔はそうでもなかったのに。やっぱ地球終ってるのかな」
 大袈裟な。聞いた総悟はそんなことを思いながらを隣に横目見る。残念そうにしている理由、まだ早かったねと彼女の言葉の意味するのが何なのかは彼にはわかっていた。それは、四季をとおして思い出深いここへとこの時間わざわざ自分を連れてきて、今この時季として浮かぶとすれば、もちろん夏の蛍でしかないだろう。
 総悟はへとむけていた眼を土手下に流れる細い月光を浴びた水面へとむける。しばし沈黙が落ちたのち、ふと彼はあることを思い出す。ごそとその手は着物の胸に伸び、そこに挟めた小さな布袋を取り出す。それは彼の大事なものだ。中にはたからものが入っている。
 が昨年武州へと戻った後からこの袋はいつも彼の胸元に普段から肌身離さずとされていて、そのことを知っているのは本人以外誰も居ない。こっそりだ。柄でもない。こっそりとこうして持ち歩いているのだが、先程夕刻前の情事に着物を脱ぐ際も、彼はそれをに気づかれぬうちに目隠しと外の光を遮断しに立ち上がった際に掌に握る。戻り組み敷いて布団の下に忍ばせて、事後いつまでもそこより腰をあげなかったのは、それをまたには気づかれぬようにと彼女の目が他所を向いているうちに着物の中へしまっていたからだ。
 「そーちゃん?」
 何かを握りぐうの手を目の前にむけられては不思議そうに首をかしげた。総悟はほらとは言葉にせずでずいとまたそれを差し出す。手を広げろの催促だ。は素直に掌を総悟のぐうの下に広げた。ぽとと落とされた小さなものには見覚えがある。その顔はぱあっと明るくなる。「持っててくれたの!?」。総悟を見上げた。
 当たり前だ。捨てるわけなどない。総悟はこくと顎で頷く。「うれしいっ」とあがる声。細い指先が小さなそれの小さな電源を入れ、すれば掌の上、本物と違わぬほどの緑色の光がおもむろに点滅を繰り返す。
 「うれしいな」
 「そんなにか?」
 「そんなにだよ。嬉しいよ」
 「偽物じゃねーか」
 「もうっ、そういうんじゃないよ。それでもだよ。そーちゃんと一緒に、またここで蛍見れたから。私すごく嬉しいの」
 「そうかィ」
 「うん、そうなの。ひとりじゃやっぱり、」
 寂しかったから。総悟はそう言って笑うの顔を見て、彼女が毎年ひとりでその時季こうしてここへとやって来ていることを覚る。否、それはこの時季だけでなく、ことあるごとに実際はここへとやって来ては総悟と作った沢山の思い出に浸ることをしていて、そうやって会いたいの寂しさを埋めていた。
 月に一度の声を聞くにも会いたいと素直な想いを隠す事はあまりしない彼女ではあるが、それは明るい声で言われることがほぼで、あとに寂しいの言葉は続かない。それだけは我慢だ。総悟を困らせたくないから。それを口にすれば、離れた距離のもどかしさに耐えられず自分が泣いてしまう事がわかっていたから。声を聞く、聞ける。聞かせてするその間は、元気だといっぱいに伝えていたい。そう思うからだ。
 プレゼントは要らないと言われていた。自分に会える、それが何よりもの贈りものだと言われていて、総悟はこの日に何も用意してはおらず。いや本当はそれでもなにかをと思わなかったわけではないが、自身も彼女に会えるとゆうそれだけで嬉しくて、胸がいっぱいで考えてしても何も思い浮かばなかったのが正直なところだ。けれど今、それだけでいいのだとがいくら言ったとしても、なにかあげたい。そんな想いが湧いては溢れ、総悟はどうしようもない愛しいをその横顔に見て、募らせる。
 「、」
 呼べば「んー?」とさっきから嬉しいの満面が彼を向く。この手元には今、形として贈れるものはない。なにもないのかもしれない。けれど。
 いつの間にか差の大きく出た背丈を屈め総悟はその顔に自身のそれを寄せてゆく。重ねるをする前に口唇傍に小さく想いを囁けば、のそれは両の角をぐっとひきあげて「私も」と返ってくる。気の利いた言葉なんて言えない、たいしたものなんて贈れない。だがたった今伝えた想いだけは、昔から出会ったあの日より変わらないずっとのこの想いだけは、嘘一つない大切な想いだけは。それだけはいつも、これからも、この先も永遠にあげ続けたいと思うから・・・。
 そっとの触れ合わせのあと総悟はこう言う。「形はねーが」。だがはぶんぶんと横に首を振る。そんなことない。そんなことないよ、そーちゃん。
 「嬉しい。嬉しいよそーちゃん。電話じゃなくて。そーちゃんとこうやって会えて、直接好きって・・・すっごく嬉しい。嬉しいよ。ありがとう」
 ふたたび重ねるはそう言ったより背伸びしてだ。あの頃と同じ、足元には近藤の贈った草履に鳴るちりんを聞く。離れては口唇のみ。近くで微笑んで。不意に脇へと視線をむけたの手にくいと引かれる長着の袖に、屈めをといて総悟もそのほうを見遣る。そうしてわずかに目を瞠る。隣りからは「わぁ!」と嬉々感嘆の声があがる。
 たった一匹。だが、されど一匹だ。の手の上からくり蛍の光にでも誘われたか、輝はそばに揺らめいて「おねーちゃん」とのもらした一言に、総悟はどこかに声を聞く。目の前に蘇る、懐かしい光景。

 それは遠い夏の日。いつまで経っても帰って来ない幼子二人を気にしては皆が探し回る。土手上に大きな顔はほっと息をつき、と呼ぶ。気取った顔があとに続き、遅れてして数歩分。結わえた髪を揺らしては、安堵に胸を押さえる姿。
 『そーちゃん!』
 先に振り返ったに遅れること数瞬、自身もそうして振り返り立ち上がる。迎えに来てくれたことが嬉しくて、けれど走らせてをし病を悪くさせたのじゃあないかと申し訳なくて。
 『そーちゃん』
 行こうと引かれる手。三人の待つ土手上を目指し二人して駆けてはそこを昇り、たどり着けばダメでしょとこつりの拳骨。だけどもそれは優しくて。そーちゃん、帰ろう。そんなふうに続く声音もやはり優しいもので。
 "おかえりなさい。"
 「そーちゃん」
 はっとして総悟は呼ばれた方を見る。「帰ろう!」。言われてはのあとを追い足を踏み出す。傍に舞う一匹の蛍はまるで道を照らしてくれているかのようだ。
 "帰ろうか、そーちゃん。"
 どこまでついて来るのかと訝ることをせずは少し先より輝のその傍でくるりと総悟へと体ごと振り返る。「やっぱりこれ、おねーちゃんだね!」。そう言って笑うのだった。








 昨晩その後、朝まで一緒に居たいを堪え結局総悟はを家まで送った。その前まで来れば、怒られなくていいのならやはりそれをされたくないなと二人は考えた。言っておくが二人はこれでも二十歳だ。が、だけならず武州に居て親を前にしてしまえば総悟も同じ、まだまだ子供。こんなものだ。
 ならばどうする。このように悪知恵に思案する事は総悟が武州を発つ前にもよくあったことである。
 「あのね、そーちゃん」
 「なんでィ」
 「うん、私表からは出てないよ」
 潜めた会話。よくよく話を聞けば、どうやら黙って家を抜け出すことに後ろめたさはあったらしい。は部屋の窓を抜け、裏に廻り見つからないように出て来たというではないか。ならば表より堂々と帰ることをせず、同じようにこそりと戻ればいい。単純な話だ。
 総悟はを連れて家の裏に廻ると念のため垣根より鼻まで隠れるかたちにむこうを覗く。灯りはない。どうやら彼女の親は眠っているようで、隣のへと総悟は軽く肩で当たる。「行け」。やはり潜めた声でそうとだけ告げると、こくんと頷いては中へと向かう。もちろん足音は立てぬよう十分気をつけてだ。鈴もついている為にかなり慎重な動きである。
 その姿がなんとかよしというところまで行けば、総悟は垣根の高さに屈めた背を起した。が部屋の前にある縁側にあがれば、ほっとして踵を返す。けれどすぐ振り返る。
 「そーちゃーんっ」
 呼ばれた声は今が深夜だからここまで聞き取れるような随分とこそりとしたものだ。だが、ここまでそれが聞こえるということは中に眠る彼女の親の耳にも届いてしまう可能性があるのだ。なにやってんだ、これではせっかっく無事に中に入り見つからず怒られるを免れても意味がないだろう。
 総悟は僅かばかし眉を顰めて片手に彼女を早く行けと払う仕草をする。が、は悠長なもので、それには「オヤスミー」とまた同じような声で言い総悟に手を振る始末。呆れを通り越し総悟はにが笑う。振るというほどのものではないが、軽く片の手をあげてやる。すればそれに満足したのかはようやく部屋の中へと消えてゆく。


 「おはようごぜーやす」
 「ああ、おはよう。総悟君」
 翌朝、荷物をまとめ生家をあとにした総悟は何をしたわけでもない、後ろめたくなる事はないのだと思いながらもの家へやって来て落ち着かないでいた。彼女を探し台所にまで顔を覗かせるもののその姿はない。どこに居やがる。昨夜のことが気になる。
 「おはようそーちゃんっ」
 後ろから掛かる声に振り返る。「ご飯出来てるよ」。そこに見る昨日と違わぬいつもどおりの笑顔に、どうやら聞くまでもなく大丈夫だったようだと覚ればほっとする。「食う」。そう言ってと共に居間へとむかう。
 実のところ昨晩が黙って総悟の元へ抜け出したことに彼女の母は気づいていた。が、知っていても知らぬふりをしている今だ。それは昨夜に二人でした話に総悟の言葉を聞いていたからだ。大丈夫。たどたどしくもあの時の彼の真っ直ぐな眼差しと一言ひとことをしっかりと受け止めていたから、信じていたからだ。
 そんなことはつゆとも知らず、二人は朝食を済ませると昼過ぎの列車が到着するまでを近藤の父に会いに行ったり、話しをしたりして過ごした。
 「それじゃあ総悟君、気をつけて」
 「はい」
 「勲君たちにもよろしくな」
 「わかりやした」
 「体に気をつけて」
 「はい」
 仕事を途中にし一旦家まで見送りへと戻ってきたの父とそんなふうに言葉をかわすのは玄関先でだ。「総悟君」。最後にの母が彼にそう声をかける。総悟はそれには彼女を見て、「待ってるから」の言葉にはただ深く頭を下げた。その意味は、昨夜二人の会話にわざわざ説明をするまでもないだろう。
 「待ってる?」
 母親の言葉を聞き二人のそんなやり取りを見ては些か入り込めない空気感に首を捻る。が、「さあさあ」とその母に手を打たれ間に合わないよと追い払うようにされてはそれ以上何を訊くでもなく総悟と共に外へ出る。
 「それじゃ、お世話になりやした」
 最後に総悟は足を止め振り返るとふたたび彼女の両親にむけ深く頭を下げた。気をつけての言葉を背中にもらい、と並び駅へと向けて歩き出す。
 久方ぶりの帰省はたった一泊ではあったがその中身は濃くいろいろな想いにいっぱいだ。昨日見たばかりの風景を今度は逆にして眺めながら、総悟は近藤らと一緒に武州を発ったあの日のことを思い出す。
 戻らない、振り返らない。そんなことを胸に誓いしていたこの前までに、けれどもう彼の胸にそれはない。戻りたい。また、戻ってきたい。に会いに、ミツバに会いに。家族に会いに。後悔に振り返るではない。ここは原点で、今こうして自分がある原点となった場所で。顔も覚えていない親、今は亡き大好きな姉と過ごした大切な想い出の詰まった場所。近藤に会い、土方に会い、沢山の仲間に会い。皆に囲まれて大きくなり。そうして江戸でさらにまた、沢山の仲間と出会い。ここがあるから今がある。大事にしたい、大切な場所だ。また、戻る。

 駅へと着くとまだ列車は到着しておらず相変わらず閑散としたそこにある長椅子へと二人は腰を下ろした。は何やらごそごそと胸元に探ると昨夜の総悟のようにそれを彼の前に差し出す。なんだとは訊かない。総悟はそれを受け取ると、何枚かの重なりを一枚一枚めくってゆく。
 「今年の願い事ね、勲兄とトシ兄と、右之助とあとねお民さんでしょ、あとは」
 手渡されたそれには武州よりむこうへと向かった者へとあちらで昨年彼女が出会った者達への想いが綴られており、総悟はそんな声を隣に聞きながら最後の一枚を見る。
 「あ、それそーちゃんの」
 「なんでィ、これァ」
 「んー、だってね、なんかそーちゃんってゆったらこれしか思い浮かばなくて、」
 お願い事じゃ、ないよね。照れては舌を出し笑うへと、総悟はまったくだと心にごちた。他の者へとあてたそれには健康を祈り、幸せであるようになどそれなりの願いらしきものが書かれているのに、自分へとあてたそれにはただ一言。「大好き」とつづられているのみだ。これは願いではなく想いにあたるもので、ちらと総悟はを見遣る。その目を馬鹿にされたと勘違いしたのか、はぶすっと膨れる。だがそうじゃない。そうじゃあない。総悟はただ、嬉しかっただけで、けれど素直じゃないはここに来て健在だ。
 「相変わらず、はバカで」
 「なっ!そーちゃんっ!!」
 息巻きが立ち上がる。振り上げられた手に総悟がふんと鼻を鳴らし抗戦のかまえをとった瞬間に、むこうより聞こえてくる汽笛の音に、二人はぴたりと動きを止める。
 「来ちゃったね」
 の振り上げた手は元へと下ろされ、そう言うとその顔は俯けられた。総悟は黙って立ち上がる。貰った短冊の束を胸に仕舞うと、椅子の上にあった荷物を手に取り、ゆっくりと車輪の動きを止めた列車を見遣る。それからへと目を戻す。言葉はない。俯きかけた顔は既にあがっておりそこにはさっきまでの笑顔がある。
 二人はどちらからともなくぷしんと開いた扉へと向かい歩き出した。その前まで来て、総悟は段差に足を踏みかけて一度それをやめる。後ろのへと向き直ると、隠したつもり、けれどわかる泣くを堪えた笑み顔に片の手を伸ばし頬に触れる。
 「なんかアレだね。見送られるより見送るって、辛いかも」
 「、」
 「楽しかった、嬉しかった。会えて、会いに来てくれて、そー・・・ちゃ、うれし・・か、った」
 「
 「会い・・に、いくね。私もまた、会いに行くね。・・・待っててね。ぜったいぜったい、ぜった・・い」
 ずっと洟をすすりあげぼろぼろと零れる涙は見せたかったわけじゃあない。なのにどうしても我慢できずだ。あふれ出したら止まらずで、言いたいことはしゃくりあげるで満足に言えない。寂しいじゃない。こんな別れがあるのなら会わないほうがよかったと昨日の総悟の言葉にあったように、はそう思っているわけではけしてない。ただ、ただどうしていいのかわからないほど総悟のことが好きで、好きで。大好きだから、止められない。
 触れた頬に溢れて止まらない涙を手に受けて、総悟は自身も堪らずにをきつく抱きしめた。このまま連れて行ってしまいたい。一緒に江戸へと連れて行ってしまいたい。けれど・・・。
 「・・・」
 「そ・・ちゃ、好き・・好き・ぁ、・よ」
 「わかってる、わかってらァそんなこと。わかってんでィ」
 十分だ。わかりすぎるほど、わかりすぎるほどだ。ここより江戸へと向かう者など滅多にいない。その数は疎らで、ひっそりとした駅に響き渡る間もなく発車の車掌の笛に、総悟は最後とさらに強くを抱きしめる。待ってろ。待ってなせェ。必ず、必ずいつか連れてゆく。約束だ。必ず、必ずに俺がを・・・。
 「迎えに来まさァ」
 うんの声はない。ただあがるはきつい抱擁にくぐもった嗚咽のみだ。乗り込むを急かすように音をあげた車体に、は漸く総悟の胸より顔をあげる。同じ色をした眸はそこに同じ想いをもいっぱいに浮かべて、濡れた笑み顔に総悟はそっと口づける。名残り惜しいと感じても、離れて。総悟の着物の胸を掴むの手もまた同じように名残惜しげと離れる。向けられた背は一瞬だ。列車へと乗り込めば総悟はすぐにまたへとその場に振り返る。
 「んじゃあ、元気で」
 「うん、そーちゃんも、」
 またね。が言ったそれが総悟の耳に実際に届いたかは不明だ。閉まる扉にそれは遮られてしまった可能性も高く、けれど彼には通じていたと思いたい。
 ゆっくりと回り出す鉄の車輪に動き出した車体をは追いかけて、ふたたび泣き出しそうな顔を見て、総悟は扉の窓越しに伝える。、笑って。
 ちりちりと忙しなく鳴る鈴の音はだんだんと勢いをよくして、は横に一枚隔てた総悟を見ながら大きく手を振る。伝わって。その顔は満面に笑みだ。それを見て、総悟は微笑む。優しい眼差しを窓の向こうのにむける。
 「そーちゃぁぁぁんっ!!またねー!!またねーーっ!!」
 ホームの端まで追いかけて、は列車の最後尾へと向けもう聞こえないとわかっていてもそう言って大きく手を振った。総悟を乗せた江戸行きの列車が、すっかりその目に見えなくなっても、ずっとずっと笑み顔で手を振り続けた。








 ガタタと揺れる車内。疎らな乗客の中にひとり車窓に流れる景色をじっと見つめて総悟は、ふと思い出しその胸元へと手を入れる。さっきに受け取った紙の束を取り出して、今は一番上となっているそれを見て微笑を洩らす。それのみを膝に避けて他は傍に置いた荷物のなかに仕舞う。
 たった今出たばかりの駅名のあと次々と停車場を告げてゆくアナウンスの最後に終点江戸を聞きながら、大好きの三文字を指先で小さく畳む。ふたたび手を入れた胸元から出て来たのは布の袋だ。口を開けば中には小さなからくりともう一つ、同じように畳まれた紙が入っている。それは去年に貰ったの願い(想い)だ。今年の分とそれを入れ、きゅっと紐を締める。胸のそばにまた戻すたからものはあたたかい。しばらくそれに微笑して窓の外を眺めていた総悟だが、心地いい揺れにふあと欠伸を洩らす。脇に置いた荷物より行きには使うことのなかったアイマスクを手にすれば、それを額にかける。指先に下げ、大きな眸は隠れる。うとうとのまどろむは、目蓋の裏に大好きな笑みを映して。
 キキっと硬く鉄の車輪が擦れる音が足元に響く。次第におさまる列車の揺れに、よろけることなくしっかりと座席より腰をあげた総悟が、伸ばした手に脇の荷物を手にして開いた扉にむけて歩き出すのは、まだまだ数時間と先の話である。




090719.
愛歌のふたりに幸あれ・・・。遅ればせながら。総悟、お誕生日(0708)おめでとう!!
見上げて夜空に沢山の星の河を願うとき、必ずと一緒に願いたいのは、あなたの幸せです。






「xocolatl.」のまなさんより誕生日祝いにいただいてしまいました!
よかったのかなよかったのかしら!!本当に本当に本当にどうもありがとうございます!!!!!
わたしの大好きなそごと大好きなヒロインちゃんが揃ってお嫁にきてくれて、こんなに幸せなことないです。
「愛歌」の二人はこれからもわたしの中で不動の地位に輝くかわいいかわいい二人です。
生み出してくださったまなさんにめいっぱいの感謝をこめて!ありがとうございました!!