「アレルヤ」
左肘の、すこし下。後ろから自分の名前を呼ぶとき、はたいていそこに、右手の人差し指と中指の先でちょこんと触れる。それから腕を包み込むようにそっと握るのだ。そうやっていつも左側からアプローチしてくるのは、自分の右眼が前髪でほとんど隠れてしまっているから。それが、一秒でも早く自分を見てほしいって、そういうのささやかな気持ちの表れなんだということに最近やっと気づいた自分は、鈍いというか、もったいないというか。
「ごめんね、待ったよね?」
「ううん。珍しいね、いつもはもっと早いのに」
「今日はちょっと、発表のキリが悪くて。教授の感想が長いんだもん。最後のほうなんてもう誰も聞いてなかったよ」
「はは」
思わずアレルヤが笑いをこぼすと、本当だってば、と不満げに口を尖らせる。なにも嘘だと思ったわけではないけれど、の機嫌を損ねてしまったようなので、謝りながら顔を覗き込んだ。すると「ううん」とあっさり微笑むので、大して気にしていなかったのだということが判明する。なんだ。アレルヤは未だに彼女の感情の変化に弱い。
なんともいえない表情のアレルヤにいくらか満足したのか、が促すように腕を引いて歩き出した。今日の講義はふたりともこれで終わりなのでまっすぐ帰ってもいいのだが、ここ何日かはアレルヤのレポート提出機嫌が迫っていたために学校帰りのお茶だってろくにしないでいた。けれどそれも今日で終わりだ。はどこか寄りたいところがあるかもしれない。半歩前を行くがとりあえずは学校を出ようとしているようなので、とられた腕はそのままで、マフラーのはしを軽く引っぱってみた。
「なに?」
「どこかに行く?お茶とか・・・あ、観たがってた映画、もう公開してたんじゃなかった?」
テレビコマーシャルで流れていた予告映像を思い出しながら言ってみると、すぐに頷くだろうと予想していたは反して考えるように首をかしげた。歩みもいくらか遅くなるのでそれに合わせて、「がしたいように、で、いいんだけど」と付け加える。腕に添えられていた手が、考え込むのにつられているのかするすると下がっていって、それを惜しく思うアレルヤは代わりに手をつないで留めることにした。
しばらくはを見ていたけれど意外と沈黙時間が長く、視線をちらりと周りにはしらせたところで、ようやくつないだ手を上下に揺さぶられた。目が合う。
「映画は週末に観に行ってもいい?お茶もそのときにしたい。今日はせっかくアレルヤがゆっくりできるから、家で一緒にゴハン食べたいな」
と、帰る時間もばらばらになりがちだったことをやっぱり寂しがっていたらしいは言った。それを断る理由なんてこれっぽっちもない。握る手にすこし力をこめて「いいよ」と微笑むと、負けないくらいの笑顔が返ってきた。
学校とアパートの間にある薬局の前を通りがかったところで、残り少なくなっていたトイレットペーパーと歯磨き粉の存在を思い出す。トイレットペーパーは一番の安売りのものを真っ先に抱えたわりに、歯磨き粉にはどうしてもこだわりがあるは、数種類ならんだ棚の前でしばらくうなっていた。反対にこれといってこだわりを持たないアレルヤはその間にトイレットペーパーを受け取って、夜のためのあれもそういえば切れ掛かってたなあなんてさりげなく一緒にカゴに放り込む。まったく気づかないはようやく決定した歯磨き粉をカゴに入れて、会計は僕がというアレルヤに素直に甘えてしまった。
そのあと立ち寄ったスーパーで、グラタンの材料を買った。アイスクリームがたくさん入った冷凍庫の前でが立ち止まるのに苦笑して、買っちゃおうか、と声をかける。
「えっ、い、いいよ、これちょっと高いし」
「でもほら、最近寄り道も全然してなかったろ?平気だよ、ふたつくらい」
「・・・・・・うん。じゃあ、アレルヤ、なにがいい?」
「の好きなもので」
結局は自分のものも、ほとんどに味見と称して食べられてしまうことになるのだから。それから数分ののち、すでにグラタンの材料の入ったカゴの中に、アイスクリームもふたつ追加される。ひとつは完全にの好きなもの、もうひとつはビターキャラメル。たぶんアレルヤのためなのは「ビター」の部分で、残りの「キャラメル」はのため、だろう。
「さむい!」
「うん」
スーパーを出るとちょうど、冷たい風がすぐそばを吹き抜けていった。今までアレルヤが持っていた薬局での買い物袋をに預けて、かわりにスーパーでのかさばった袋を受け取る。空いた手はつないで、ぶらぶらとアパートへの道のりを歩き出した。ここから彼らの家まで、もう距離はそれほどない。
「あ、」
「ん?」
「うん、メール?」
言うとアレルヤは袋を持ったままの手で器用にポケットから携帯電話を取り出した。画面を見て、内容を読んで、そのまま返事を書き始めるので、が口を挟んだ。
「誰から?」
「ロックオン。今日がレポート提出日だって覚えてたみたいだ。ちょうど実家から野菜がたくさん届いたから、レポートも終わったことだし、うちで鍋でもしないかって」
「わ、お鍋?いいかも、今日寒いもんね。どうする?」
「え、もう断っちゃったよ」
「ええ、早い」
あっさりとしたアレルヤの答えに目を丸くすると、携帯電話をまたさっきと同じようにポケットにしまいながら、だって、と当然のように続ける。
「今日はとふたりで、夕飯食べる約束じゃないか。鍋のほうは週末まで待ってもらう」
そういって笑うアレルヤがなんだかくすぐったくて、も笑った。ロックオンには悪いけれど、ごめんね、今日はもう約束してたから。
「じゃあ週末、忙しいね」
ぎゅっと身体を寄せて言うと、アレルヤがもっと嬉しそうに微笑んだ。
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(2008.2.10)